バイクの2人
僕の家の近所を、時々けっこうな排気音で疾走する1台のバイクがいる。
まだ寝るにも早い時間なので、とりわけ迷惑に思ったことはないけれど、細い路地を遅くわない速度で走り去るそのバイクが、僕は気にかかっていた。
ある日、そのバイクに偶然駅前で出くわす機会があって、その様子を横目で眺めていると、参考書っぽい本の入った半透明のクリアバックを持った女の子が、あのバイクに駆け寄ってきた。
そこにはちょっとヤンチャっぽい男の子がいて、女の子は彼からからヘルメットを受け取ると、軽く言葉を交わしてバイクの後部にまたがった。バイクは例の排気音を残して交差点を曲がると、勢いよく夜道に消えてしまったとさ。
「こんな尾崎豊の歌詞みたいなの、久々見たな。」
なんて思いながらも、いまじゃこんな姿は正しい行動とも、“洗練”された若い男女の一幕”とも思われそうにないけれど、なにか新鮮な生命の動きにも似た、“いまここにこうして生きていること”にたいする爽快感が、はじめてカルピスを飲んだ時みたいで、印象に残ってたんですよ。
「愛することによって失うものは何もない。しかし、愛することを怖がっていたら、何も得られない。」
心理学者で作家のバーバラ・デ・アンジェリスは“愛”に関し、このように言ってたらしい。
でも、目に見えない・形のない“愛”という概念に挑み続けて、もちろんうまくすれば幸福のひとときを過ごすことができるけれども、敗れた時には自分だけならまだしも、第三者まで巻き込んで精神的・肉体的に破壊しかねない、なんとも危険なゲームのプレイヤーになるんでしょうかね。
非常にロジカルな理工系の人ならば、過程=結果とならない“愛”なる概念は無意味な暇つぶしかもしれないけれど、僕たちの太古から身体的に組み込まれた感情や感覚は、自らの内からこみ上げてくる得体の知れない動物的エネルギーに、いまだに執着せざるを得ないようで、この“なんだかわからないけど、こみ上げてくるもの”のひとつが“愛”というものなのではないかな、と。
はかなくも、僕たちは生まれもって“愛”なる雲をつかむようなゲームのプレイヤーで、先にあったバーバラ・デ・アンジェリスの言葉はゲームにおいての注意事項の序文なのかも。
僕たちの住む日本はどうだろうか。
20代では「若者の恋愛離れ」、結婚後では「セックスレス」、定年が近くなれば「熟年離婚」なんて、なんともパッとしない言葉しかここ最近は見ないし、繊細で和を重んじる国民性がゆえに、個々人のパーソナリティーを理解することができないくらい野性味から遠ざかってしまって、“みんな”という囲いで一緒にいれば問題ないと考える傾向が日々強くなっているんじゃないかなぁと。
もうひとり、国際ジャーナリストとして活動するドラ・トーザンという人物の言葉を借りると、「“amour(アムール)”がいまの日本人には足りない。」と世界でもっとも恋愛体質のフランス人らしい解説をしてくれている。
彼女の言葉を見ていくと、
①男性から女性、お父さんから娘へと、いろんなアムールのレベルがあるけど、いまの日本には全部足りない。
②相手への感情を言葉で出すことが必要。
③形式的なカタチに縛られない。日本は「結婚」というカタチに縛られている。これは古い考え方だと思う。「結婚」と「アムール」は別物。
④年齢はアムールに関係ない。
⑤情熱を感じられるか。
いくぶんか抜粋したけど、確かに僕たちに欠けている要素が、各部に散りばめられている気がする。
「囲い」に安住しがちの僕たちからすると、「囲い」なしに触れ、ハダカの状態に身を置いているフランス人のようには一朝一夕ではできないかもしれないけれど、多少なりとも情熱的に、自分のパートナーになり友人に対して言葉を発することはできるのではないかと。
その一言が引き金となって、僕たちの生活にフランス人らしくいえば「生活の中の芸術(アール・ド・ヴィーブル)、生きる喜び(ジョワ・ド・ヴィーブル)」が生まれてくるのではないだろうか。ね。
冒頭のバイク青年と若い女の子は「数字に落とし込めない、計量することのできない何か」と「内からこみ上げてくる得体の知れない動物的エネルギー」を何気なく見ていた僕にもお裾分けしてくれて、親やら学校やら仕事やらの「囲い」なしの純粋な情熱と感情を見せてくれた典型で、まさにアムールの世界そのものだったな。
ここ最近、バイクの排気音が聞こえてこないのは気がかりだけど、私の見たアベックは怖れずお互いのアムールに触れ、人間の一番野性味ある部分に踏み込んだという経験を身に付けたと、アラサーは思いたいんだよ。
少なくともそうであってほしいと、切に思いながら、家でビールを飲んじゃうんだな。
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