陸上自衛隊優秀隊員からパーソナルトレーナーになるに至った経緯
みなさん初めまして。元陸上自衛官パーソナルトレーナーの山中と申します。現在都内のパーソナルジムにおいて店舗責任者・即応予備自衛官をしております。
今回初めてのnote執筆となりますが、私がこのnoteを書こうと思ったきっかけとして私のトレーナーにかける思いについてみなさんに知って欲しいからこそです。
そして、私の思いに共感していただける方達とSNSを通じて繋がっていきたい。
そのように考えたからです。
私がパーソナルトレーナーとして活動を始めたのは2020年の8月から。
まだ1年も経っていない新米トレーナーにもかかわらず、今年2021年1月より店長としてグループ最大規模の店舗を任せられることとなり、現場トレーナーに対する研修等も行うようになりました。
店長を任せられるに至ったのは、店舗を出店するタイミングと自身の評価・男性トレーナーを店長に据えたい会社側の要望等々色々な要因が噛み合って起こったことです。
「ただ運が良かっただけ」「飾りだけの店長」そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、私がパーソナルトレーナーとして1つだけ絶対にどのトレーナーにも負けないと自信を持って言えることがあります。
それは「人を助けたい」という気持ちです。
それについて知ってもらうために、まずは陸上自衛隊優秀隊員だった自身の過去、そしてパーソナルトレーナーになるに至った経緯について書き記していきたいと思います。
陸上自衛隊との出会い
陸上自衛隊の存在を初めて知ることになったのは2011年3月11日に起きた東日本大震災でした。
当時私は小学6年生でしたが、連日震災のニュースやACのCMが流れて普段とは違うただならない雰囲気に恐怖を感じていました。
ニュースで映る震災の瓦礫を撤去したり、ボートを漕いで家の屋根の上に避難している人を助けたり、ヘリコプターの上から降下しておばあちゃんを抱えてヘリに颯爽と戻る自衛官の姿。
それに僕は「格好良いな、本物のヒーローみたいだ。」子供ながらそう感じたことを今でも覚えています。
私は幼少期の頃本当に仮面ライダーや戦隊ヒーロー、ウルトラマンが大好きで、よく幼稚園で真似をしていました。
幼稚園の頃の発表会では「仮面ライダーブレイドになりたいです!」と自信満々に発表していたほどです笑(男性の方は共感していただけると信じています。)
その幼少期の頃の記憶が今一度当時、小学生の頃の私に蘇り、自衛官と正義のヒーローが重なって見えた初めての瞬間でした。
しかし、そのころは将来の夢に自衛官になりたいなどと思うようなことはなく、良い高校・良い大学へと進み、有名企業や弁護士や医者等の給料が高く、安定している職業に就くことが最上であると考えておりました。
中学・高校時代
中学生に上がった私は、新しいことを始めたいなと思い、小学生の時にしていたバスケットボールではなくソフトテニス部に入部し、勉強も部活もそこそこに人並み以上に頑張っていました。
友人にも恵まれ、なに不自由ない中学生生活を送りました。
高校は県内でも歴史のある進学校に進学し、高校に関しても同じように勉強・部活の毎日でここでも友人に恵まれ今振り返ってみると、とても充実していたなと感じます。
元々人とのコミュニケーションは苦手ではなかったので、中学・高校ともに教師や先輩・同級生との関係は良好でした。
高校は前述の通り進学校であったため、周りの友人は当然のことながら皆大学に進学します。
私も当たり前のように大学に進学しようと考えていました。
あの災害が起きるまでは。
熊本地震、そして自衛官へ
私は高校3年生になり、いよいよ受験が控えていた頃でしたが、未だ将来の目標が明確になっておらず、行く大学は愚か学部すらも決まっていない状況でした。
そんな中、ニュースで悲惨な映像と共に地震速報が流れてきました。
熊本地震です。
東日本大震災の時と同様に広島から離れた地域での災害でしたが、規模が大きく沢山の家屋が倒壊し、沢山の方がなくなったため高校生の私はとても衝撃を受けました。
しかし、そんな悲惨な状況でも奮闘する自衛官の姿がありました。
私は今一度、東日本大震災の時に感じたことを再び思いだしました。
「自分には何かできないのだろうか?
この人たちはこんなに泥や汗まみれになって人を助けようと頑張っているのに。
そうだ。
自衛官になろう。
自衛隊に入隊して自分もこのテレビで映る自衛官の方々と同じように人を救うんだ。」
そう思った翌日には担任・学年主任・進路指導の教師の方々の元に行き、大学には行かず、陸上自衛隊に入隊する旨を伝えました。
教師の方々は全力で私を否定しました。
「絶対に大学は出ておいた方が良い、大学に行ってから自衛隊に入隊すれば良い、どうせいっときの感情なのだから一度頭を冷やせ。」
高校卒業から何年もたった今ですら、その時の言葉や先生の表情を鮮明に覚えております。
中には自衛隊なんてと罵倒する方もいました。
親にも自衛官になると話した際、先生と似たようなことを言われました。
しかし、私は頑として自衛官になるという進路を変える事はありませんでした。
もう、自分の気持ちに嘘をつきたくありませんでした。
世間体のような実態のないものに突き動かされ、周りが進学するから、良い大学に行くことが成功への道だから、親や教師が反対するから。
そんな理由で私は自分の気持ちをなかったことにはできなかった。
私は地本(自衛官の広報活動や採用活動を行っている場所:地方協力本部)にアポイントメントを取り、願書を提出しました。
地本の方からは、「君の高校から自衛官になりたいと言ってくる人がいるとは思わなかった。」と驚かれました。
試験は無事合格し、そこからは自衛官として周りに遅れをとることがないようにほぼ毎日ランニンング・腕立て伏せ・上体起こしのトレーニングを欠かしませんでした。(元々体力は人並みで体力測定でも平均値程度)
次第に学校では浮いた存在になっていきました。
皆が受験勉強に四苦八苦している中、一人だけ進路が決まっていたからでしょうか。
周りからはあいつは高卒だから終わっている、自衛官は底辺が就く職業、どうせすぐ辞める、と陰で言われていたと仲の良い友人伝いに聞きました。
教師・友人など周りの人々の大学に進学すると言っていた頃との変わりように悲しいを通り越して、呆然としていました。
しかしもうそんなことは自分には関係なかった。
とにかく自衛隊に入隊するまでにできる事は全てやっておきたい。
周りの雑音は遮断し、とにかく卒業まで自己鍛錬に励みました。
↑入隊激励会
自衛隊編:教育隊
↑入隊式後
高校は卒業し、晴れて自衛隊入隊です。
緊張と不安で押しつぶされそうになりましたが、合格が決まってからの半年間の努力のおかげで自信を持って入隊を迎えることができ、
場所は香川県に所在する善通寺駐屯地110教育大隊に着隊しました。
皆、坊主で一様にこれから起こる教育に対して不安そうな面持ちをしていました。
教育隊ではまさに絵に描いた自衛隊のような毎日の連続。
毎日朝ラッパで叩き起こされ、整列し点呼を行う。
すぐさまベッドメイクを行い、食堂へと駆け足で移動。
その後課業が始まり、常に秒刻みで時間が指定され物品の忘れ物や伝達ミス、時間に遅れる等あればその場で教育隊の助教・班長達からの檄指導。
そしてクタクタになって課業が終わり、夕食・洗濯・靴磨き・アイロン・体力錬成等々、その他業務に追われ気づいた時には消灯時刻。
カビ臭いベッドに横になると一瞬で朝になり、また起床ラッパで起こされる毎日。
こうやって書き出してみると、本当に壮絶な毎日だったなと思います。
しかし、本当に楽しかった。
同期達と一緒に励まし合いながら厳しい訓練を乗り越え、時には涙を流しながら喧嘩をしたり、ブラックサンダーを食べながら班長たちの愚痴を言い合ったり、休日に香川の街でうどんを食べに行ったり、他愛もない馬鹿話で盛り上がったり、突然ラップ対決が始まったり。
そして、教育が終わる頃には、同期や班長・助教達と教育期間中の思い出話に花を咲かせ、最後に皆で涙を流してケツメイシの友よを歌ったり。
本当に最高だった。
今でも人生で一番濃い最高のひと時を最高の方達と共有できたことを誇りに思います。
教育隊では努力の甲斐あって体力優秀隊員や、教育隊優秀隊員として表彰を受けることができ、同期の中でも良い成績で教育を終えることができました。
そして配属部隊は憧れの地元広島の普通科連隊(歩兵戦闘職種)に所属することとなりました。
↓表彰・班員写真
↑体力優秀隊員表彰
↑教育優秀隊員表彰
自衛隊編:普通科
地元広島の部隊に所属することとなり、広島でも3ヶ月普通科隊員としての教育を受けました。
そこでも素晴らしい班長や同期とめぐりあい本当に楽しく充実した毎日を過ごしました。
そして正式に部隊に配属が決まります。
これまで、同期や助教・班長だけだった教育隊とは打って変わって、先輩隊員や上司の方達と生活・仕事していくことになります。
配属初日は緊張しすぎて自衛隊生活で初めてよく眠れませんでした笑
自衛官は独身者(幹部や一部は除く)は総じて駐屯地の寮に住む必要があり、基本部屋は相部屋で3~4人で生活しています。
私の同部屋の先輩は関西出身の優しくとても面白い先輩だったため、すぐ馴染むことができました。
そして、今まで自衛隊生活の中で、禁忌とされていた駐屯地の中を”歩いて移動する”ことができ非常に不思議な感覚になりました。
自衛隊は部隊に入ってしまえば、後は普通の公務員となんら変わりません。
朝8時に仕事が始まり夕方17時には仕事が終わる。
仕事も以前みたいに訓練や体力錬成ということは少なく、戦闘職種であっても単調な作業や整備ばかりでした。
最初こそ教育隊の時のような縛られた環境から抜け出すことができたので、開放感がありとても嬉しかったのですが、徐々に仕事に対して面白さを感じなくなっていました。
訓練をもっともっとしたい。
もっと強く大切な人を守れる男になりたい。
それから僕は、仕事が終わってからトレーニングを始めるようになりました。
ウェイトトレーニングやランニング、HIIT(高強度インターバルトレーニング)、格闘錬成、これらを回しながらトレーニングを行っていました。
周りの先輩や上司で意識の高い方々も、同じようにトレーニングされていたので僕もそれに混ぜてもらったりすることもありました。
ただ、これはごく一部の自衛官の話で、基本自衛官は公務員ですので仕事が終われば後は部屋でダラダラしたり、遊びに行ったりする方がほとんどです。
僕の周りにはそのような一般的な自衛官より、一緒になって切磋琢磨していただける自衛官が多かった。
徐々にトレーニングの結果も出始め、副連隊長から表彰を受けたり連隊の格闘競技会要員に選抜されたり、さらには中国地方の自衛官をまとめる旅団長からも直々に表彰を受けるというこの上ない評価をいただくこともありました。
努力は裏切らない。
まさにその言葉を自衛官になって初めて実感することができた気がします。
このまま自分は自衛官として一生を国防に身を捧げるのだろうなと考えていました。
しかし再び災害によって人生は変わり出します。
↑旅団長表彰
↑副連隊長表彰
平成30年西日本豪雨:初めての災害派遣そして絶望
それは金曜日のことでした。
自衛官にとっての金曜日は特別です。
なぜなら、週末外出(門限がない外出)ができるからです。
皆、彼女や友人と過ごすために駐屯地の外に外出していました。
私はその日は警衛業務(自衛隊の門に見張りとして立つ業務。通常24時間交代制で業務にあたる。)の任についており、門の前に立って外出していく方々の身分証のチェックをしておりました。
その日は生憎の雨でした。
しかし普通の雨とは異なり雨量が非常に多く、駐屯地の前に流れる水路の水嵩が危険域にまで達していたため、すぐに警衛司令に報告しその後の対処について指示を仰ぎました。
そうこうしているうちに雨はどんどん強くなり、ついには県知事から出動要請がかかりました。
外出していた自衛官は続々と駐屯地に戻り、すぐさま物資を積み込み危険地域へと向かって行きました。
私は前述の通り警衛の任についていたため、すぐに出動はできませんでした。
周りの同僚や先輩方が向かっていくのを見て、悔しさと共に自分も出動したいという思いが込み上げてきてなりませんでした。
夜が明け、警衛の任務を下番するとすぐに、私も出動させて欲しいと頼み込み、なんとか派遣部隊に組み込んでいただくことができました。
ようやく、今まで自分が自衛隊で努力して培った技能や体力を生かすことができる。
あの時画面越しに見ていた、憧れの自衛官に自分もなることができる。
やっと自分の力で人を救うことができる。
私は意気揚々と車両に乗り込み現場に向かいました。
しかし、現場に向かうまでの景色は悲惨な光景ばかりでした。
家屋や車は土砂や河川によって流され、木々が至る所に散乱している状態、自衛隊だけでなく警察消防、マスメディアの方々が点在し、誰かを呼ぶ声や泣き声や悲鳴が聞こえました。
担当現場に着いた時、そこは辺り一体土砂で埋まっていました。
着いてすぐに捜索活動が始まり、辺り一体の土砂をかき分け、家屋に入って生存者がいないかどうか必死に捜索しました。
しかし、その地域の方々のほとんどは既に土砂に流されてお亡くなりになっていました。
ご遺体を探し出すと収容して手を合わせ、皆でご冥福を祈ります。
それを繰り返しているうちに、自身の無力さからくる悔しさやお亡くなりになってしまった方々のことを考えると、作業中目から涙が止まりませんでした。
あれだけ頑張っていたトレーニングは全く役に立たない。
あれだけ自衛隊で評価を得ていても全く役に立たない。
自分の力では人々を助けることができなかった。
そのことが何よりも辛く苦しく、そして悲しかった。
その後も災害派遣は続き、行方不明者の捜索から瓦礫・土砂・木々の撤去作業がだんだん増え、最終的に県知事からの出動要請は撤回されると同時に派遣は打ち切られました。
災害派遣が終わり、自衛官には長期休暇が与えられました。
長期休暇の際も、それが明けても頭の中にはあの時の光景がこびりついて離れません。
あの方々を救う方法はなかったのだろうか?
自分はこれからどうしたら良いのだろうか?
常にそのような疑問が頭の中をぐるぐる回っていました。
仕事中も以前のような覇気はなくなっていました。
そのせいもあって、ある時部隊長に呼び出され面談を受けました。
「大丈夫か?お前は考えすぎだ。今度部隊のみんなで宴会を開こう。
辛かったことも苦しかったことも全てみんなで共有して一緒に前に進んでいこう」
優しく声をかけてくれました。
その後宴会が開かれ、私は災害派遣での思いの丈を部隊の同僚にぶちまけました。
そこでは、皆が私を優しく励ましてくれました。
しかし、その中でかけられた1つの言葉によって私は憤慨してしまったのです。
その言葉というのが、
「後で聞いた話なんだが、派遣された地域は元々ご老人や体を自由に動かせない方が多かったから、土砂から逃げきれなかったらしい。だから、お前一人がどう頑張ったところで救うことはできなかったんだから仕方がないよ。
前を向いて自分のやるべきことをしっかりやれ。」という言葉です。
それを聞き私は、
何をいっているんだこの人は?
仕方がないわけがないだろう!人が何人も亡くなっているんだぞ!?と思いました。
その場では言い返しませんでしたが、後々になって沸々と怒りが湧き出てきてしまい、私はどうにもおかしくなってしまいそうでした。
もちろんその人も悪気はなく、私のことを思ってかけてくれた言葉だということは重々承知しております。
しかし、私は人の命を仕方がないで片付けてしまうことを許容できなかった。
ただ、その言葉の中の「ご老人や体を自由に動かせない方が多かった」というキーワードはずっと頭の中にひっかかっていました。
もし、お亡くなりになってしまった方々が体を動かすことができ災害時に即座に避難することができていたら、助かっていたんじゃないのか?
今後同じような災害が起きた時に、自力で逃げ切れる人が多ければもっと被害は少なくてすむんじゃないだろうか?
その時、私は高校3年生と同じ別の職業に一筋の光を見たのです。
その職業が「パーソナルトレーナー」でした。
パーソナルトレーナーはお客様にマンツーマンで指導し、トレーニングや施術を通して人の体を変え人生を変える仕事です。
この仕事ならば、逃げ遅れてしまうような人々を減らせる。
私はそう確信しました。
自衛隊退職
そう決断してからはすぐでした。
部隊長にできるだけ早く退職したい旨を伝え、そして決まっていた昇進も蹴りました。
他の同僚たちからは応援する声もありましたが、批判する声も当然ありました。
特に一番尊敬していた上司からは退職願いを取り下げるよう促され、厳しく叱責されました。
「お前は何か勘違いをしている。お前はお世話になった同僚や先輩、上司の方々の期待を全て裏切ろうとしている。災害派遣での一度の体験くらいでへこたれるなんて弱すぎる。俺は絶対にお前を認めない。」
そう告げられ、その日から退職まで一言も会話をしてくれなくなり、挨拶をしても全て無視されるようになりました。
退職までの期間は長く、苦しい期間でしたが私は挫けることはありませんでした。
人を助けたい。
人を助けられるような男になりたい。
その一心で退職まで、批判に耐えながら業務をこなし、空き時間ではパーソナルトレーナーになるための勉強を行いました。
そしてついに退職の日になりました。
退職の日、部隊の方々に向け、再度挨拶しお礼の言葉を送りました。
部隊の方々も私が空き時間で必死に勉強していた姿を見聞きすることがあったみたいで、最後は笑って激励の言葉と共に送り出してくれました。
そして最後まで私を無視していた上司も、「頑張れよ」と一言声をかけてくれました。
そうして私の自衛官としての長いようで短かった約3年間は終わりを迎えました。
そしてパーソナルトレーナーへ
私は自衛隊を退職して大阪にあるパーソナルトレーニングスクールに通いました。
毎週1回広島と大阪を往復する日々。
当然新幹線なんて高くて使えなかったので、毎週夜行バスで通っていました。
そして平日は地元のジムでアルバイトをし、知識のインプットとアウトプットを両立させつつとにかく全力でがんばりました。
その後はコロナウイルスによる緊急事態宣言等に悩まされたり、スクール生の同期がほとんどやめてしまったりいろいろありましたが、大阪に拠点を構えるパーソナルトレーニングジムに就職することができました。
大阪で研修を行ったあと、東京にある恵比寿店勤務を命じられ上京する運びとなりました。
東京の恵比寿で2ヶ月副店長として経験を積み、現在は前述した通り新宿店で店長をしております。
私は、人を助けることはできなかった。
しかし、今度こそ必ず人を助けてみせる。
そう胸に誓って今を生きています。
そして4月から即応予備自衛官としての採用が決まりました。
即応予備自衛官・・・陸上自衛隊退職者の志願者からなり、高い錬度が期待され、有事・訓練等の際に招集、陸上自衛隊における各任務に就けられる。引用:Wikipedia
これで、トレーナーとしてだけでなく再び自衛官として人を助けることができます。
私はこれからも走り続けます。
いつか夢見た正義のヒーローになるために。
ご拝読いただきありがとうございました。
パーソナルトレーナー 山中翔太
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