いけばなって何?(1)
パーティーなどで「生け花やっているって聞いたけど、生け花ってなんですか?」と話しかけられることがあります。なかなかうまく答えられません。
相手は一般の方、専門家ではありません。しかも、オーストラリアでの話。生け花という言葉を初めて聞く、という方もあります。
私は自分なりに何年もこの問題を考えてきていますし、出版物もいくつかあります。それでもこうした社交の場での簡単な返答が見つからず、困ってしまいます。
さらに、時には専門家とみなされ、テレビや新聞などでインタビューを受ける機会もあります。Plain Languageという言葉がありますが、平易な誰にでもわかる言葉で説明できるようでなければいけないと思います。しかし、自分の考えていることを、できるだけ正確に伝えようとすると、かなり複雑な話になっていきます。
もちろん、生け花については様々な定義、立場の違いがあり、私がここで何を書いたとしても異論、反論があることでしょう。それは承知の上で、「とりあえず」の話を続けます。
まず、生け花と西洋フラワーアレンジメントの違いから説明することが多いです。似て非なるものを並べることで理解しやすくなるはずです。
フラワーアレンジメント作家の場合、ゴールドワージー (Andy Goldsworthy) のような自然の素材を用いる現代芸術家も同様ですが、彼らの焦点は人為です。花や自然の材料に対して、人が何をしたのか、加えられた人の手の跡を面白がっている。そこを評価するわけです。「自然に対する人為」それがキイワードです。
生け花の場合、焦点は自然です。人為ではありません。ただし、自然の姿そのままを客観的に写生する、というのとは異なります。自然にもっと積極的に(あるいは内的に)関与します。自然本来の、あるいは自然の理想的な姿を表現しようということなのです。つまり、「人為的に精錬された自然」あるいは「人為を融合させた自然」といったあたりです。
大体はそんなところなのですが、この両方向の違いたるや、非常に分かりづらい。
例えば、ある生け花作品を前にして、ここに表現されているのは、「自然に対する人為」か「人為を融合させた自然」か、と尋ねられたとします。私は、大抵の場合、判別できるだろうな、と思います。しかし、おそらく多くの方、特に外国人には非常にわかりづらいと思います。
実際、その点こそが海外で生け花を教える際の困難の根源でもあります。
今後、この問題については何度も繰り返し、書いていくことになるでしょう。