2024/2/2
弐拾dB @mototugufujii の東京出張「最終列車零時三四分発」が先週開催されてからの初の営業でした。いやあ先週はすごかった。弐拾dBも、書肆書斎もご贔屓に。
@morozumid も感謝です。
さて、ハレとケということで、今日はうってかわって通常運転。近所の方からわざわざ足を運んでくれた方まで、ありがとうございました。来店人数、まだ数えられます。
そして、皆さんが長居してくれるようになって結構嬉しいです。椅子、いっぱいあってよかった〜。
次回も来週どこかでやると思うのでまた月曜日あたりに告知します。
◆今日読んだ本
リチャードパワーズ 舞踏会へ向かう三人の農夫
随所にデトロイトdisを挟みながら、円形のレストランからエーテルを否定したマイケルソンモーリーの実験へ飛躍し、デトロイト美術館のグロテスクさを語ったのちに表題の写真作品に出会う第一章が大好き。
愛知県出身者からすると、デトロイトdis部分がすごく響くので人一倍楽しめる(愛知県出身者は是非読んで欲しい。)
※ちなみに、デトロイト美術館と豊田市美術館は、デトロイトと豊田市が姉妹都市であることから提携している。
◆わざわざするから価値がある
弐拾dBの繁盛を見て(そして弐拾dBが尾道にあることを選択していることをみて)、(藤井くんの内心はわからないけど)こんなことを思った。
今の、同じものがどこでも買える社会においては、店が客にわざわざすることがサービスとしての価値になっている。逆に「客が店に」わざわざすることは普通はないが、それを強いることは互酬的で贈与的な新しい関係になりうるのではないか。
前者の状態は、店にとっての客が、労働者にとっての資本家の立場になっている。これは資本家による搾取であると同時に、店が客の論理を内面化し、「自主的に隷従している」状態である。そして、それがあまりにも自然になっているのでそうでは無い可能性に気づきにくい。
しかし、本来は店と客の関係は人間対人間として捉えた時にはそうではない状態も想定できる。物を買ってくれるからといって、客は株主や雇い主ではないので(そうだったとしても、というのは置いておいて一般的に)価値観や行動まで客に合わせる必要はない。客が店に対して「買って欲しいならわざわざへりくだるべし」というなら店は客に対して逆のことが言えるはずである。しかし、物を売ると「お金」が得られてしまう。「お金」の怪物的な力に惑わされてしまうのである。この力に抗うために、いくつか方法があるはずである。(注)
そのうちの一つは客に「わざわざ」を強いることだ。客がその店に行くのに「時間的制約(24時間いつでもやっていないこと)」「距離的制約(気が向いたらすぐ訪れられる場所にないこと)」「心理的制約(気軽に入れる雰囲気でないこと)」があるのに「わざわざ訪れる」ことにより、店の客に対する隷従関係は薄れる。そして便宜上「お金」が流通しているがそこでは互酬的で対等な人と人の交流、情報の交流が成立するのではないか。
裏腹に「お金」は生活、命に直結する物で、人間が例えばダイオウグソクムシのように食物や気温や睡眠が不要な生物だったら上の仮説は成り立っただろうがそうではない。しかし、客に対する隷従、ひいては「『怪物』としてのお金」の影響が薄れた景色を模索できないかと思う。
弐拾dBを見て思ったそんなことは、サラリーマンが副業で不定期に、夜中に店を開くことにおいても同様の可能性があるのではないか、というのは一つの仮説である。結果はまだわからない。
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注: そも、貨幣自体もフィクショナルなものであるから、その反対の状態も「より」フィクショナルなものとして相対化しフィクショナルさの濃度の問題と想定することもできるが、それらを分け隔てる「谷間」として、ホッブスのリヴァイアサン概念を援用しながら後述の「『怪物』としてお金」というものを措定しているのが柄谷行人の「力と交換様式」だ。しかし、これは『怪物』が対抗する価値すらない静的で絶対的なものということではなく、むしろ常に対抗行動すべきかつ、行動の動機となりうるものとして動的な構造を浮かび上がらせている、と捉えれば僕らにやりようはある。