変革が不要な理由? 反DXの立場で考えてみた
変革が必要な話ばかりしているので、読者にはポジショントークに聞こえてしまっているかもしれません。ポジショントークは、ビジネスでは必ずしも否定されるものではありませんが、それでは金勘定を越えた、心を動かすようなメッセージ性は出せないと思っています。変革がしばしばボランティアで始めねばならない活動である以上、動いてほしいのは算盤ではなく心だからです。
ですから今回は、逆のポジション、つまり反DXの立場をとってみたいと思います。架空の製造業の経営者をイメージしてみました。
いかがでしょう。それなりに説得力が感じられるのではないでしょうか? 大きな知識不足という訳でも、論理が破綻している訳でもありません。真剣にビジネスのことを考えていますし、極端に視野が狭いとか視座が低いとかいうこともなさそうです。
ですから、経営者がこう思うならこれでいいのです。
変革に乗り気でないのは変革に乗り気でないから
しかし、もし何かが不足しているとすれば、それは何なのでしょう。DXという文脈で考えるとき、根本的に何かすれ違っているものがあるのでしょうか。
それは、変革への渇望感だと思います。
上述された論調は、あたかも変革の必要性を論じているように見えて、実は変革しない理由を探しています。可能な限り現状を維持したままで、どうしても変えないといけないポイントを探したうえで、やはり不要なのだと結論付けたがっているように見えます。あるいは、どうしても否定しきれないときだけ渋々変革プランを立てようとしています。この思考パターンにおいては、あらゆる変革はうまくいかないと感じています。
というのも、変革とは漠然とした空気感から始まるものだからです。それが、このままではダメなのではないかという危機感であったり、もっと何かできるかもしれないという期待感であったりするにせよ、先に具体的なポイントから始まるのではありません。そうではなくて、むしろ先に変革への意思があり、後からポイントが具体的になってくるものなのです。
その変革への意思がどこから来るのかは分かりません。正解か不正解かも分かりません。経営者は、そういった嗅覚のような漠然とした根拠を頼りに行動を起こすことがあるということです。十分に情報が出揃ってから決断して間に合うようなビジネスは存在しないからこそ、そういった直感のようなものが求められるのですし、その感覚に関して賛否両論、多面的に議論するためにダイバーシティの大きな経営陣が必要とされるのです。
そして、直観から始まり、議論を経た結果として、もしもぼんやりとした方向への変革が必要だとなったときに、具体的な検討が始まります。各論は、経営陣のイメージに合うものもあれば、具体化してみるとイメージに合わないものもあるでしょう。これは正しいステップです。なぜなら、顧客が何を欲しているか言語化できないからこそデザイン思考が市民権を得たのと同様に、変革もアイデアを具体化しないと経営陣は判断できないからです。しかし、その判断基準が現業と同じではうまくいきません。『イノベーションのジレンマ』における新規事業と同様に、変革への意思を判断基準に織り込まないといけないのです。
そういう目で前述の独白を読み返すと、姿勢がことごとく受け身であることが分かるでしょう。ここには差し迫る危機感も、好機への貪欲さも見られません。やるべきこともやりたいことも感じられず、ただVUCAの状況で経営を行う当惑が見られるだけです。
必ずしも変革は必要ではない
しかし、繰り返しますが、経営者がこう思うならこれでいいのです。
経営をしている過程で必ず変革をしないといけない訳ではありませんし、変革をするにしても、そのタイミングは今ではないかもしれません。
あるいは変革に前向きであったとしても、気を付けるべきことがあります。経営者が自分で変革を推進していると思っているにも関わらず、実はブレーキを踏んでいる場合があるということです。変革というのは要素が連動する多面的なもので、細かな制御が可能ではないため、望むところだけ変えて他はそのまま、という形にはならないことが多々あります。その際に、思い通りにならない部分を全て止め、局所的な改善を望むとすれば、それは全体としては変革を止める側に回ってしまっているということです。
もちろん、本当に大切なことは保持せねばなりません。それが脅かされるなら変革活動全体を止めることも必要です。例えば人事制度を変えるのに報酬制度はそのままという変革が不可能なことは自明ですが、そういった要素の連関は至る所に存在しますので、事前に全ての影響は見通せません。こうして変革活動が経営者の予想していた形と異なってきたときに、最も大切なことのみを確実に優先させ、些事のコントロールを一部は放棄せねば変革は前に進まないでしょう。
こういう状況を想定した結果、変革に踏み切れない経営者がいるのも頷けます。やりたいことがあっても、その副作用として些事と見えた部分から混乱が拡大し、オペレーションが破綻するリスクは確かに存在します。そのリスクを負ってまで挑戦すべきことがなければ、変革の思いを封印するのもひとつの有力な選択肢です。
変革を推進する理由が根拠のない嗅覚で、しない理由は想像可能なリスクだとすれば、変革に着手しないというのは合理的な判断といえるでしょう。だからこそ、合理的な経営者が、少なくとも会社存続の危機が訪れない限り、本格的なDXに手を出さないというのは正しい判断だと思います。
キーワードは「嗅覚」vs「合理」
こうやって見てみると、キーワードは「嗅覚」vs「合理」になるのでしょうか。
ところで、会社を興すような人が合理的でないのは明らかです。確率的に大半は失敗しますし、ある程度成功してもサラリーマンの生涯収入を超えるとも限りません。ですから、もし選ぶ余地があるとすれば、会社員を選択するのが合理的です。それにも関わらず、なぜ人は起業するのでしょう。その理由にはいろいろあるでしょうが、それと会社を変革したい理由には、きっと共通点があるのだと思います。ミンツバーグが挙げたマネジャーの10の役割の一つ「起業家」は、この文脈にも当てはまります。つまり、徹頭徹尾合理的であることが経営者の役割とは限らず、それ以外の何かに基づいて行動することは決して否定されないということです。
先ほどから「経営者がこう思うならこれでいいのです」と繰り返していますが、「こう思う」というのは、変革に前向きでないという話でもあり、嗅覚より合理性を重視するという話でもあります。会社を経営するのに正解がない以上、経営者としての信念とステークホルダーの要請の中から何か方針を決めねばなりませんし、その結果として変革のリスクを大きく見積もったり合理性を徹底したりすることは普通にあり得ます。
自社の経営陣がDXに取り組まないのは意識が低いから、不勉強だからと決めつけるのは非常に危険です。十分に知識を備え議論を重ねた経営陣であっても、DXに取り組まないという結論に至り得るからです。重要なのはその結論に至る前提であり、過程です。冒頭に例示した経営者の独白は少し深みが足りなかったかもしれませんが、もし真剣な検討の末に反DX的な方針が採用されたならば、それは全社を挙げて遂行すべき会社の決断なのです。
閉鎖空間では嗅覚が発揮できない
ひとつ懸念があるとすれば、似たような人々に囲まれて仕事をしていると、嗅覚を発揮しようにも社会の空気が届かないということです。ソクラテスの言う “無知の知”、すなわち自分には知らないことが多くあるという感覚は、日々が重要な案件と折衝で埋め尽くされていくにつれて、知らず知らずのうちに存在感を減じていきます。その結果として、本来は感度のいいセンサーを有していたとしても、匂いの元が届かないようなルーチンに入り込んでしまうことが恐ろしいですし、もったいないと思います。
ですから、空気を入れ替えることが重要です。ビジネス書はもちろんですが、会社を離れた研修やイベントは効果があるでしょうし、社外取締役や中途採用者も外部の価値観を提供します。そうして十分に新鮮な空気を堪能したあとに、経営者がこう思うならこれでいいのです。