見出し画像

なぜ意思決定者はデータを使おうとしないのか?

意思決定において、なぜデータはかくも使われないのでしょうか。


データ利用の「宣言型」と「探求型」

ビジネスの場で、確かにデータは出てきます。グラフが一枚もないPowerPointは少ないでしょう。しかしそのスライドの何を見ているのでしょうか。

書籍『データビジュアライゼーション』には、可視化の類型として「宣言型」と「探求型」があるとしています。宣言型とは、結論の後押しをすべくPowerPointのスライドに貼られたグラフのように、自説をサポートするために用いられます。一方で探求型とは、答えを探すためにデータを用いることです。一般には、個人か小さなチームで議論をする際に使われることが多いでしょう。

ここで問題にしたいのは、なぜ探求型のデータ利用が少ないかということです。


観点1: その仕事は仮説検証か?

筆者は研究出身です。研究という仕事にはいくつかの特徴がありますが、仮説を立てて検証するというプロセスと、結果 (特に目覚ましく良い結果) を疑ってかかるという点に注目してみましょう。


仮説検証という仕事の最大の特徴は、仮説が間違っているかもしれないことです。ですから、研究者はいつも自省的に振る舞います。斬新な仮説であればあるほど間違っている可能性は高く、素晴らしい結果ほど何らかのミスや勘違いが入り込んでいることが多いと考えます。しかも、同時に自信過剰であることも自覚していますので、仮説や結果の解釈の誤りに独力で気付くのが難しいことも知っています。

だからこそ、研究者はデータを詳細に精査し、同僚との徹底的な議論を通じて多角的な視点から検証します。データを宣言的に用いるのは、十分に検証がなされた後であって、しかも客観性を担保することを決して忘れないという姿勢を重視しています。


一方でオペレーショナルな業務は仮説検証ではありません。上司の指示は基本的に正解であり、予定通り進まないのは何かの障害が発生したときです。ですから、データは議論ではなく報告のために用いられます。報告の場合には、結論を強化する形になりますので、宣言的です。不具合の原因など、部下には分からかった場合にのみデータは探求的に用いられる傾向があります。


経営はどうでしょう。エリック・リースは『リーン・スタートアップ』において、経営とは仮説検証であると述べています。もし経営が仮説検証なら、研究と同じようにデータは探求的に用いられ、徹底的に議論されるでしょう。一方で経営とは指示と実行の関係であり、経営者は報告を聞きたいと考えているのであれば、データは宣言型で用いられ、報告書の他のページと同様に意思決定の参考とされることになります。


観点2: 理解を重視しているか?

もうひとつ重要な観点があります。“理解”への欲求です。

マイクロソフトのエンジニアである牛尾剛はこう言っています。

周りのイケてる人って、誰もunderstandに手を抜かないんですよ。
(中略)
いっぺんunderstandするのは時間かかるんだけど、それをいったんunderstandしたら、もう他のことがスーパー早くなるというのがわかりました

Microsoftエンジニアが明かす日米ソフトウェア開発文化の違い


もし上司や経営陣に本質を理解したいという欲求がなく、財務指標や計画の進捗のみに興味がある場合には、議論は起こらずデータから探求が行われることもありません。そういう場合には、求められる資料はどんどんシンプルになり、データは宣言型として用いられます。

一方で上層部が理解を求めている場合には、全員が分かったと感じられるまで探求が続きます。USの会議ではギリギリまで質疑が続き、最後の数分で理解だけ確認して解散ということがよくあります。日本の感覚からすると、丁寧な合意形成がないまま会が終わってしまって大丈夫かと心配になるのですが、実際にはほとんど問題は起こりません。

これはまさに、十分にunderstandすれば、あとは各人が勝手に動いても破綻しないという進め方です。根本的な前提や状況が理解されていれば、手段は重要ではないという考えに基づきます。一方で日本のような文化では、根底の部分は暗黙の了解として、具体的な行動を合意しにいくという違いを感じます。

この “理解” という文脈でいえば、何が起こっているのかを議論するために探求的なデータ利用が行われます。報告書にあった数字はそのままの解釈でいいのか。別の見方をすることで欠けている観点は見つからないのか。安心していい側面と懸念すべき側面が同居してはいないのか。こういった論点が机上の空論にならないためにはデータが必須でしょう。


データから探求しないのは探求心がないから (同語反復)

ところで当たり前のことですが、いま既に情報が十分にあると思えば、それ以上の情報を必要とはしません。つまり、まだ判断材料が足りないと感じているから探求しようという気持ちになるのであって、もう十分な情報が手元にあると思えば、情報収集にそれ以上の時間を割かないという意味です。ですからデータは、他の情報が十分かどうかで求められる状況が変わります。理屈や前例、経験から来る予感、噂話などと、意思決定者の認知コストを争っているとも言えます。

それら質の異なる情報は、しばしば互いに矛盾します。理論とデータが相反したり、聞きつけた噂とデータが逆方向になっていたりする。そのときに “総合的に判断” しないといけないのですが、実際にはなかなか難しいものです。

そこで、理解への強い欲求がない意思決定者には (データを探求するのではなく) あらかじめ他の情報と矛盾しないようなデータを宣言的に資料に入れさせることで、気持ちよく意思決定しようという気持ちが働きます*。


これが本稿の結論となるのでしょう。データが使われないのは意思決定者がサボっているか、あるいは情報を扱う能力に限界があるからです。結果として、仮説を立て検証するプロセスが省かれたり、正確で総合的な理解を志向しなかったりします。もしこの状況を改善したいなら、意思決定者をその気にさせたり、分かりやすくしたりする工夫が必要だと思います。

データを重視しない意思決定のプロセスが、どういうときにはうまく働き、どういうときには致命的になるのか。筆者にはそこまで語る力量がありませんが、混乱した現実より歴史ある前例が頼りになる状況なら、おそらく問題ないのではないでしょうか。






*本当は、上がってきた報告をそのまま受け取って経営方針を決定するということは、実は意思決定の半分は、部下が報告書を作成した時点で既になされていることになるのかもしれないのですが、そこは気にしないということだと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?