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DXとは温故知新、でも何を温めるべき?

既存事業を変革するデジタルトランスフォーメーションとは、温故知新の試みです。これは、デジタルが新しい分野であること、そして古いことを大切にしないなら、新しく会社を作った方がよほど早くて自由度も高いことを考えれば、当たり前のことを言っているに過ぎません。


DXは温故知新、でもどの古きを温めるべき?

ですから問題なのは、どの古い点を大切にするかでしょう。

全てを保持するならば、会社は何一つ変わりません。ですから、何かを選んで残し、何かは捨てねばならない。しかし何を残すのか選べるのでしょうか。

そのためには、なぜ変革が必要なのかを考えねばなりません。社会が変化しているから、というのは十分な理由にはなりません。時代に逆らって生き延びる方法もあるでしょうし、変わらないという逆張りが大きな利益をもたらす可能性もあります。

もうひとつは、前の問いと関係しますが、変革の後にどういう姿になりたいかです。

例えば極論を考えてみましょう。究極の自動化を図り、1000人だった会社が最終的に社長1人になりました。売上も伸び、利益に至っては爆増です。意思決定も速く透明性も高い。ですが、この会社には仲間と苦楽を共にして得る喜びの瞬間もありませんし、ダイバーシティの大きさから来る深い学びも得られません。

あるいは、その社長すら不要とされ、株主の意を受けて経営される無人AI企業になったらどうでしょう。ここには経営者のwillもなければ突拍子のない夢も存在しません。

ですから、なぜ、誰のために、どんな姿を目指すのかが重要になります。


未来の会社をイメージしてみる

まず仮に、株主至上主義というか、株主絶対主義を前提に置いたとしましょう。この場合には、先に挙げた無人の会社は理想的なのではないでしょうか。経営者と株主の利害の不一致 (プリンシパル=エージェント問題) は生じませんし、人事交代・引継ぎによる情報のロスも生まれません。株主資本を最大化するために全てのアセットが最適な効率で運用され、株主が引き際を感じたときには、会社清算に異を唱える人間もいない構図です。

では創業者を絶対に置いた場合にはどうでしょうか。この場合には社長1人の会社というのは良いアイデアかもしれません。クリエイティブな創業者は少なからず存在しますが、周囲の理解が追い付かないせいで新たなアイデアが試せないことは多々あります。ですが、機械がオペレーションを全て引き受けるなら、社長は自らの創造性に没頭できるでしょう。

逆の方向性として、社員を多く雇用したい場合はどうでしょう。企業は社会の公器と見做される場合も少なくありませんが、その方向性を推し進めたい場合です。
多くの人がいれば、多くのタイプがあります。ですから、人がたくさんいてうまく回る会社には、多くの人がそれぞれ自分に合っていると感じられる何かがあるに違いありません。何かとは、例えばやりがい、仕事のプロセス、気の合う仲間など様々でしょう。これらモチベーションを特定し、個性をうまく組み合わせて生産性と創造性と幸福感を最大化するようなAIが作れないかといえば、そのうち可能になるかもしれません。


ありたい姿を描いてバックキャストする

こう考えてみると、ありたい姿というのは思った以上に幅が大きいことに気が付きます。この発想を縛らないために重要なことは、現状をベースに考えてはならないということです。急いで付け加えるなら、まず現状を抜きに考えたうえで、後から現状とのブリッジングを考えるという順番が望ましい、ということです。

ありたい姿を描き、そこに至るまでに獲得しないといけない人材や能力や資産や文化がある。その中でいま自社が保有しているものを大切にし、ないものは獲得する。それが温故知新の意図です。決していま保有する全てのものを捨てないという話ではありません。

もちろんこれは理想論です。
実際には自社の現在を完全に忘れ去って将来の姿を描くことはできませんし、その姿に競争力があるとも限りません。バックキャストで実効的なプランを考えるのは実際には難しいという問題もあります。

別の言い方をしましょう。温故知新という観点で見るならば、将来の姿を考えることは自社の長所を知ることです。自社が新しい時代で生き残り飛躍するために、いま持っている何が活かせるのか。次代でも受け継がれるべき、古くて新しい文化は何なのか。

逆に短所も判明するでしょう。変化の速い時代に足を引っ張る箇所はどこなのか。もし外部からCEOが就任したら真っ先にやり玉に挙がるのは何なのか。

それらは、今とは異なる社会やビジネスを描いてみて初めて分かります。最終的にどんなビジョンや戦略を採用するにせよ、それは可能に思えなくてはなりませんし、競争力がある必要があります。そのために何を活かし何を獲得するか、その方針を温故知新と呼んでいるのです。ですから、序盤の繰り返しになりますが、当たり前のことを言っているに過ぎません。


主体的な変革を志向する

では、なぜ当たり前のことを言うのかといえば、DXという言葉に過激なイメージ、例えば会社が根こそぎ変わるとか、ITが分からないと仕事が全てなくなるとか、そういう過剰な反応をする人に安心感を抱いてほしいからです。それと同時に、温故知新と聞いて安堵し思考停止に陥る人に対して、いま慣れ親しんでいるもの全てを残す訳ではないと警告したい意図もあります。

変革というのは、強制されれば非常に苦痛なものです。どれを残しどれを新しくするのかについて、何の意見も言えないのであれば、自己効力感は激減し、ロイヤリティも地に落ちます。一方で主体的に変革に関わるということは、非常にやりがいがあることです。仲間と共に、将来の自社のために、そして社会のために何ができるのかを考えるのは、仕事の面白さを何倍にもしてくれます。長く働いたこの会社の、次代に残すべき特徴は何なのか。時代を超えて引き継がれるべきものは何か。それを考え実現していくのがDXです。

変革はトップダウンだけではうまくいきません。非公式なリーダーを含め、様々な人がリーダーシップを発揮し、会社の可能性を模索する。その結果としてぶれない軸が見えてきたとき、温故知新が劇的に加速するのです。


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