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リモート派? 出社派? オンラインでの自己責任と喜怒哀楽

オンラインはきっかけにあふれている。でも行動を後押しはしてくれない

テレワークにおける、オンラインのコミュニケーションに不満があるという話をよく聞きます。

ところで職場結婚は激減しているようです。90年代に比べると6割減。結婚総数の減少を加味しても、職場結婚は顕著に減っているらしいです。面白いのは、ネット婚は増えているものの、ネットにできるのは出会いの場までであって、雰囲気作りなどの後押しはできない。だから婚姻数回復の決定打にはならないのではないかという考察です。

つまり、情報収集にはなっても行動の決定打にはならない。これはネット社会の特徴だと思います。

行動力のある人、どんどん試す人にとってインターネットは素晴らしいツールです。一方、確信が持てるまで動かない人、思考がぐるぐる回ってしまう人にとって、インターネットから浴びせられる情報の洪水は、必ずしもいい行動に繋がりません。機会は提供されますが、結果に関しては自助努力というか、自己責任の色合いが非常に強いということだと思います。


自助努力と強制力のバランスは所属組織によって異なる

自助努力も自己責任も、決して悪いことではありません。特に結婚のような、個人に関わることはそうです。しかし社会として何らかの損失が生じるとき (例えば人口減で国家が消滅するとか) には、個人の選択権を十分に確保しつつ、社会にも利益になるような仕組みが必要になってきます。例えば、キャス・サンスティーンとリチャード・セイラーが “リバタリアン・パターナリズム” あるいは “ナッジ”と呼んだ、個人の自由意思と社会の利益を両立させるような仕掛けです。

企業の場合には、その強制力をもう少し働かせることもあるでしょう。自由主義の国家にとって選択肢の強制は自らの否定ですが、それに比べて企業は伝統的に、金銭を対価として、労働時間や勤務地など従業員の自由を制限してきました。コミュニケーションの話に戻ると、もし職場における交流が、その制限された自由の中で行われてきたとしたら (例えば実質的に強制参加の飲み会など)、リモートワークという自由のもとで以前ほどの効率を示さないのは納得です。機会があるだけでは不十分で、雰囲気に後押しされないとコミュニケーションできない人は一定数いるだろうからです。


オンラインコミュニケーションは (対面と同様に) 完璧にはならない

ところで、リモートワークにおけるコミュニケーションは、誰にとっての不満なのでしょうか。

先輩にアドバイスを貰いたいが、顔が見えないせいで話しかけるタイミングが分からない新人。より広い視野を持ちたいが、同僚の話が聞こえてこないせいで、自分の業務以外のトピックが見えない中堅。会議室では最前列の中央に陣取っていたのに、オンラインでは画面の端に追いやられ、発言しないと存在感が消えてしまう幹部。その他にも様々あるでしょう。これらの不満の一部は、今後のテクノロジーの進化によって解消されますし、解消されず残るものもあります。ですが、これまでのオフィスが業務にとって100点満点ではないように、リモートが非の打ちどころのないものになる日は来ません。なぜなら、例えば上司が気軽に話しかけやすいということが、部下の立場から見ると頻繁に集中力が削がれることを意味するように、トレードオフを打破して全てを満足させるような理想の姿がそもそも見出されていないからです。

その中で、誰の不満解消を優先するのか、という問いになってしまうと、どうしても立場が上の人が有利になってしまいます。実際に米国の研究結果では、オフィス復帰によって生産性が高まることはないが、権力の強い男性CEOが復帰を求める傾向にある[1][2]と報告されています。


リモートでは感情の伝達が難しい

ところで別の観点で、感情の伝達も気になります。

喜怒哀楽で考えるなら、まずリモートワークにおいて興味深いのは、画面越しに怒られても対面より怖くないことです。リモートで画面越しに怒鳴るのは傍から見て滑稽ですし、怒られる方も狭い会議室より安全を感じやすいでしょう。ですから、怒りを通じたマネジメントの効果が減じるのは間違いありません。もしかすると、喜びや楽しさも対面に比べて盛り上がりに欠けるかもしれませんし、独りの時間が多いことを考えると、哀しみが増えていないか心配でもあります。

これまでビジネスにおいては、アンガーマネジメントに代表されるように、感情をうまくコントロールすることが重要とされていました。一方でリモートワークが普及すると、逆の重要性、つまり感情をうまく伝える手法が求められるかもしれません。


人の認識は視覚55%、聴覚38%、言語7%?

そういえば、有名なメラビアンの法則というものがあります。人の認識は「視覚55%、聴覚38%、言語7%」という数字で知られています。実際には、口調の強弱や表情を変えて同じ言葉を聞かせ、どのような印象の変化があるかを実験したものですので、コミュニケーションにおいて言語がなくても93%が伝わるとか、逆に言語だけでは7%しか伝わらないという意味ではありません。とはいえ、文章だけに比べて視覚や聴覚がある方が伝わりやすい、誤解されにくいということを示唆しています。特にユーモアや言いづらいことなど、文字にしてしまうと失われるニュアンスに関しては、意識した方がいい法則だと思われます。

では視覚や聴覚は、画面越しのビデオ通話では補えないのでしょうか。音声に関しては、通常の発言は問題ないでしょうが、隣の人にそっと耳打ちするなどは難しいと思います。画面に関しては、全身が映らないと姿勢や仕草を見てリラックスしているのかイライラしているのかも判断できませんし、そもそも資料を画面共有している話者からは、参加者の映像が数人分しか見えていないことも多いと思います。ですから、リモートではリアルに比べて情報量が落ちることは確かです。

ただ、それらがどこまで仕事に必要なのか、議論の余地はあるでしょう。例えば言いたいことがあるなら発言すればいい (「言わなくても感じろというのは甘え」) という考え方もありますし、表情は国が違えば表す感情が異なるので、過度に読み取らない方がいいという話もあります。言い換えるなら、非言語的なコミュニケーションという考え自体がハイコンテクストな文化に由来しており、もはや今は亡きノスタルジーを追い求めているのかもしれないということです。実際にはそこまで極端ではないにせよ、過去を美化しているかもしれないことは念頭に置くべきだと思われます。

そうそう、実はメラビアンの実験は録音と写真で行われたようです*。つまりメラビアンの法則自体が、生身の対面という状況から導かれたものではありません。ですから、画面をONにしたビデオ通話なら、視覚の55%や聴覚の38%も伝えることができるという結論になるはずですが、実際にはどうなのでしょう。


コミュニケーションスタイルの違いは偏見に繋がりやすい。手強い問題です

リモートでは自己責任論が強くなってしまうことと、コミュニケーションに感情が乗せにくいことを述べてきましたが、実はこの2つは同じ種類の人々が感じている苦痛かもしれません。自律性が強く考えをはっきり言語化する人がリモートに順応しているのに対し、同じコミュニティに長く属し阿吽の呼吸で助け合う人が苦痛を感じているという構図です。前者はコミュニケーションにおいて客観的なエビデンスを残すことを重視し、後者は和を重んじ気分よく進めることを重要と見做します。リモートワークで有名なGitLabの本を読んでいても、共感しない人が一定数いることは容易に想像できます。これは文化の違いであり、例えば “Disagree and Commit” (議論の過程では反対しても、決まった結論にはコミットする。根回しの対極) を推奨するかどうかは、まさに理想のコミュニケーションの違いに掛かっています。

ですから重要なのは、こうして考える限り、コミュニケーションを通じてどういう姿を目指したいかということであり、まずそれを自覚することです。無自覚であれば不毛な水掛け論になってしまいますが、自覚していれば対話することができます。ただ、自覚して対話するという提案自体がローコンテクストな発想で、正論の押しつけと感じる人がいることを忘れてはいけません。

こういった対立のなかで、ハイコンテクストなコミュニケーションを諦めて自分の役割に没頭する人がいたとして、阿吽の呼吸の人々から見て “静かな退職” に見えるなら悲しいことです。やる気の問題ではなく、コミュニケーションスタイルの問題なのですから。逆に、議論の得意な人から見て根回しを常とする人々が反知性的に見えるなら、それは偏見です。同質性の高い人々の方が平均的にはイノベーティブだとされているのですから。

ここまで考えてきても、残念ながら難しいという感想以上の何かは出てきません。コロナ初期に出てきた "ニューノーマル" という言葉を聞かなくなったのは、定着して言われなくなったというより、まだノーマルと言えるような状態を見出せていないのではないかと思っています。こういった派閥は感情的にはなかなか解消できませんので、デジタル屋としては、コミュニケーションの新しい姿を提示するようなテクノロジーに期待しています。




*元論文を探したが見つからず、実験条件はインターネットの解説を参照しています

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