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ChatGPTが定着すると箇条書きが重要になる?

以下の文章を読んでみてください。

デジタル変革、或いはDXとは、デジタル技術を駆使し、ビジネスのあり方、社会の構造、人々の生活様式を根底から変えていく行為であると定義される。この変革は、単に新しい技術の導入にとどまらず、組織文化の変革、ビジネスモデルの再考、顧客体験の革新をも包含する。しかし、DXの概念を囲む問題はその定義のあいまいさにある。デジタルという語があまりにも包括的であり、それによって変革の具体的な輪郭が曖昧となっているのだ。デジタルと非デジタルの境界は流動的であり、新たな技術の出現はこの区分を一層複雑にしている。
さらに、変革そのものの定義にも困難が伴う。何をもって変革と見なすかは、個々人の視点や組織の状況によって大きく異なる。小さな改善と大きな変革の境界は曖昧で、変革という言葉自体が強い感情を喚起しやすい性質を持っている。しかし、重要なのは、定義を明確にすることではなく、組織内で共通の理解に基づく議論を可能にすることである。理想的な定義を求めるよりも、おおまかな合意の上に成り立つ共通の認識を築くことが、DXを巡る議論と実践のためには不可欠である。
このように、DXという概念はその広範な定義にもかかわらず、組織や社会における変革の重要な推進力となっている。完璧な定義を模索するよりも、共通理解に基づく議論の土台を構築することで、より効果的なDX戦略を策定し、実行することが可能となる。このアプローチは、テクノロジーの進展に伴う不確実性や複雑性に柔軟に対応し、持続可能な成長と変革を促進する道を開くであろう。

これはChatGPTに以下の箇条書きを見せて作文してもらったものです。

  • DXとはデジタルを用いて様々なことを変革する行為である

  • ここで問題なのは、何がデジタルでどういう変革なのか、その中心的な概念を定義することである

  • なぜなら、全てを包含する言葉は何も語らないのと同じだから

  • しかし、デジタルとそうでないものを完璧に切り分けるのは難しい。いま既に多くの混乱が認められるだけでなく、これから新しい技術も次々に登場するからだ

  • 変革の定義もまた難しい。どこまでは小さな変化でどこからが大きな変革なのかという個人の感覚も異なるし、変革という言葉の強い語感が容易に賛否の感情を惹起するからだ

  • だが実は、定義するというのはきれいな線引きだけではない。中心から離れるにつれて意味が遠ざかるようなやり方もある

  • だから重要なのは美しい定義ではなく、おおまかに同じ理解に至ることで議論が成立する土台を作ることなのである

元の箇条書きと、冒頭と、どちらが分かりやすいでしょうか? この文章を再度ChatGPTで箇条書きの要約に戻してもらうとこうなります。

  • デジタル変革(DX)は、デジタル技術を用いてビジネス、社会、生活様式を根本的に変える行為

  • DXは新技術の導入だけでなく、組織文化、ビジネスモデルの再考、顧客体験の革新も含む

  • DXの定義はあいまいで、「デジタル」という語の包括性がその曖昧さを増す

  • デジタルと非デジタルの境界は流動的で、新技術の出現が区分を複雑化

  • 変革の定義は個々の視点や状況によって異なる。小さな改善と大きな変革の境界も曖昧。

  • 変革は強い感情を喚起するが、重要なのは定義の明確化ではなく、共通理解に基づく議論

  • DXは広範な定義にも関わらず、組織や社会の重要な推進力

  • 完璧な定義よりも共通理解に基づく議論が、効果的なDX戦略の策定と実行に不可欠

  • このアプローチは技術進展の不確実性や複雑性に柔軟に対応し、持続可能な成長と変革を促進する

どんな印象でしょう。

大規模言語モデルで読書が変わる

さてここで問題提起したいのは、“情報量”と“読者体験”です。
つまり、文章のうち余分な箇所を削り取った必要最低限 (minimum viable) の内容は何なのか。そして読者にとって最良の体験はどういう形式や手続きから得られるのか、ということです。

先に後者の、読者体験の話からしましょう。
もしも、端的な情報収集を好む読者であれば、AIを用いて様々な文章を箇条書きに要約し、どんどん摂取するのが高効率です。逆に流麗な文の連なりを好むのであれば、箇条書きをAIに掛け、文章を生成して読むのが心地いいでしょう。ChatGPTに代表される大規模言語モデル (LLM) 以前にはこの変換の精度が低く、箇条書きなのか文章なのかという違いは重要でした。しかし、少なくとも意味を汲み取りたいという実用的な用途に関していえば、もはやその違いはないに等しくなりました。LLMで文章の生成や変換が誰にでも開放されたということは、個人にカスタマイズした文章生成が可能になり、読者体験が劇的に変化することを意味します。ランボオの苛烈な詩を村上春樹の穏やかな語りで読むことだって可能かもしれないのです。

さてもう一つの話題である情報量に関していえば、これは非常に難しい問題です。というのも、誰にとっての情報量なのかという観点があるからです。先の例でいえば、筆者は最初の箇条書きに言いたいことを込めました。しかしChatGPTが補った「DXは新技術の導入だけでなく、組織文化、ビジネスモデルの再考、顧客体験の革新も含む」というところに価値を見出す読者もいるかもしれません。つまり、作者やそれぞれの読者によって、重要な情報というのは異なるのです。

ところでこれまでの読書というのは、著者から読者への一方的な独り語りでした。しかし、LLMを介することで、読者は著者への疑似的なリクエストが可能になります。「顧客体験の具体例を踏まえて解説し直してください」「共通の理解さえあれば議論は可能なのか、もし他の要素があれば挙げてください」など、いま読んでいる文章に関し、文脈を踏まえた解説を引き出すことができるのです。現在の精度では、質疑を繰り返すと著者が伝えたかったこととLLMが元から学習していた情報とが混然一体となってしまうでしょうが、それでも読者は満足するまで話題を掘り下げたり、横道に逸れたりしながら対話性のある読書を続けることができます。
この読書体験は、おそらくは前代未聞の、まったく新しく出現した現象と思われます。かつて哲人が対話から得たものに似ている気もしますし、本を先に読んだ知人が解説してくれるのに近いかもしれません。もしかしてLLMの提供した補足が間違っていて、誤解が増幅することもあるかもしれません。しかしそれも、初学者同士で輪読会をしたときの経験と近いのかもしれないのです。

大規模言語モデルを前提とした情報発信:箇条書きの復権

さてこのように、情報量が対話的に変化し、文体を読者が選べる時代になったとき、発信する側はどうあるべきなのでしょう。仮に自分の発した情報がLLMを介して読まれることを前提とするならば、何を考えておけばいいのでしょうか。

筆者は、箇条書きが復権すると考えています。
あるいは表形式でもいいし、データでもいい。要するに絞り込んだエッセンスの発信になると予想しています。
華やかで過剰な文章を長々と語る必要はありません。筆者のように物を書くのが趣味ならば別ですが、普通に考えるなら、どうせ変形して読まれる文章の、細々としたところにこだわって書く時代は終わります。かつて手書きで文書を作成していた時代には、美しい文字を書く必要がありました。しかしPCで書類を作成する現在において、字が上手いというのは趣味の範疇となっています。おそらくは同様に、美しい文章を書けるというのも趣味の技巧になるでしょう。LLM時代において、情報を伝えるという点において重要なのは、受け手に伝えたい必須の内容を十分に吟味する能力となるのではないでしょうか。

ここで早速誤解しないでほしいのは、いまは過渡期だということです。
今から送信する顧客宛の謝罪メールが箇条書きであれば、おそらくは謝罪として成立しません。しかし近未来において、箇条書きで発し、受け手が好きな文体で読むのが一般的になれば、箇条書きは失礼でも何でもなくなります。もちろん現在でも手書きの履歴書が絶滅していないように、もしかすると一部では文章を丁寧に書くことが美徳とされる文化が残るかもしれません。しかし合理的な文化の元では、箇条書きで送信し、LLMを介して読むというフローを排除する理由は想像できません。

いまLLMは、「生成AI」という名前で流行を形成していることでも分かりますが、説明文書や報告書やメールなど様々な文章を書いてくれるという点で評価されており、文書を作成する側に役立つものと理解されています。しかしここまで書いてきたように、筆者の予測は少し異なります。LLMは読者の福音となるのです。作成側は、必要最低限の文章を作成すればいいという形で恩恵を受けるのでしょう。
もしかしたら、文章以外のコンテンツもそうなるかもしれません。音楽や動画も、コンセプトだけを受信し、自分の好みのスタイルに生成して楽しむという未来像です。ある商品の説明を基にして、比較表を作成する人、文章と音声を生成して耳で聴く人、スタイリッシュな動画で観る人などがいる世界。これが筆者の言う“読者体験”ですが、果たして未来はどうなるでしょうか。


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