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「かなしみ」その1(筆者:あおいみかん)

大切なもの。
それは、本当はいつもそこにある。
愛しくて、
美しくて、
そして、「かなしい」

「悲しみ」

愛おしいものは常に「悲しみ」を含んでいる。

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみには、いつくしむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことのできない何かが宿っているというのである。

『悲しみの秘儀』(若松英輔)

「愛情」

愛情が深ければ深いほど、その「悲しみ」も深い。
そして人は、その「悲しみ」に宿る「美」を、なんとか言葉にしようとしてきた。

(古今和歌集の)「哀傷歌」の巻を読むと「よみ人しらず」のこんな和歌に出会う。

 声をだに聞かで別るるたまよりも亡き床にむ君ぞかなしき

夫が仕事で遠くにあるときのことだった。妻は病に襲われ亡くなろうとしている。そんなときに詠まれた歌だ。彼女は、遠く離れた夫にむかって、あなたの声を聞くことができずに逝こうといている私よりも、私が逝ったあと、夜、独り寝るあなたの悲しみの方がよほど耐え難いだろう、というのである。
 先に見たように、かつて「かなし」という言葉は「悲し」「哀し」だけでなく、「愛し」と書くこともあった。先立つ者は、残された者の生を思い、「かなしむ」。それは、単なる悲嘆の表現ではなく、尽きることのない愛情の吐露でもあった。

『悲しみの秘儀』(若松英輔)

「せつなさ」

ぼくたちは、幸せを感じるとき、同時にそこにある「悲しみ」には、なかなか気づかない。

だが、
とても大切な瞬間に、
愛おしい瞬間に、
幸せな瞬間に、
なんとも言えない「せつなさ」を感じたことはないだろうか。

それは、そこに「かなしみ」が存在していることを意味する。

そしてそれは、無常であり、刹那であり、はかない。
だからこそ、「かなし」いのだ。

出会った意味を本当に味わうのは、その人とまみえることができなくなってからなのかもしれない。

『悲しみの秘儀』(若松英輔)

「かなし」

いつか人は、「悲しみ」に向き合わなくてはならない時が来る。

そして、本当はいつも同時に存在していた、それに気づく。

その時、「かなし」を「かなし」や「かなし」とした、いにしえの「かなし」にふれ、単なる悲嘆ではなく、はじめてその本当の意味を知ることになるのだろう。

かけがえのない今

「愛着」と「かなし」は比例する。
大切にしたものには、「愛着」がわくものだ。
それは、なんとも言えない「愛おしさ」のことを言う。
そこに、逆はない。
そしてそれは、「無常」であることが約束されている。

だからぼくたちは、今を大切にしなければならないし、かけがえのない「かなし」をまとった今を、ぼくは大事にしたい。

そう思いながら、ぼくは今日も生きる。

あおいみかん

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