『枕崎』 〜1999年 会社の2つ上の先輩の男〜 vol.3 (ゲイ小説)
なのに知り合って2年目を過ぎたころ、いつものとおり居酒屋を出て「じゃ、チューしよっか」と戯れついたら、枕崎先輩は少し無言になってから
「いいよ」
と、ひとこと言った。
ギョッとした。
100%「イヤです」と言われるつもりだった僕の心は乱れた。
「チューとか言って、もう、あれだよ、唇にチュッとするだけの可愛いやつじゃなくって、もう、口の中で舌をベロンベロンにかき混ぜてヨダレだらけになるよ。それでも、いいの?」
僕は枕崎先輩が「イヤです」と言いやすいように悪趣味なことを言った。
だって、今、ここで、枕崎先輩とキスをする心構えなんて1ミリもできていなかった。
だけど枕崎先輩は、頭を少し右に傾け「んー…」と喉の奥でファックスの送信音みたいな音を立てながら何かを考え、そして
「いいよ」
と言った。
いや、いや、いや、いや。
無理だって、ば!
「じゃあさ、もう、いっそこれからホテルへ行こうよ」
僕は賭けに出た。
枕崎先輩よ、お願いだから「イヤです」と言っておくれ。
そんな気持ちだった。
だけど枕崎先輩は小さく頷きながら
「んー…いいよ」
と言った。
なんで?
どうして?
これはどんな冗談なのか?
これはどんな落とし穴なのか?
頭の中が完全にパニックだった。
僕はただいつものように「チューしよ」「イヤです」「お尻触らせて」「ダメです」と、生意気な後輩とちょっと気の弱い先輩のコントみたいなやりとりをしたかっただけなのに。そんなふたりのあるべき姿に満足して今宵も良い眠りにつきたかっただけなのに。
「じゃあ、わかった、次回にしよう。次回、ホテルに行こう」
僕はダサかった。
自ら喧嘩を売ったくせに「今回は見逃しといたるわ」というヨシモノかなんかのコントに登場する小さなヤクザみたいだった。
「いいよ」
そう言って小さく微笑む枕崎先輩の表情が勝ち誇っているように見えた。
悔しかった。
枕崎先輩に初めて負けた、というか先手を取られたような気がした。
それからふたり駅まで歩いてバイバイをした。
夢のような出来事が起こり、これは夢なのではないかと疑い、目醒めよう目醒めようとして一生懸命に瞼を持ち上げる、という夢を見ることが、時々、ある。
帰りの地下鉄の中で僕は瞼を上げようと、何度も何度も額に力を込めた。
本当の夢だったら、それで覚醒して「あ、やっぱり夢だったんだ」と寝起きのぼんやりとした頭の中で、ほっとしたり、がっかりしたりするのだけど、枕崎先輩の「いいよ」は、やっぱり、夢でもなんでもなくてただの現実だった。
2年間とちょっと。
ずっと自分が望んできたことなのに。
突然訪れた夢のような出来事は、まるで夢のようではなく、戸惑いばかりが僕の胸のうちを占めた。
全然、意味がわからなかった。