【9-15】織って、綴って、書き記す。
いつの頃だったか、おそらくは大学院に通っていた頃だと思うのですが、その時から妙に表現へのこだわりが増したというか、言葉の言い回しを考える時間が伸びたような気がしています。
速く、分かりやすく、簡潔な文章が書けることは非常に大切だとは思う反面、複雑で難解なものを理解しやすいように言い変えたり、簡単な部分だけを抽出して説明してみたり...という行為に関して、一縷の希望を感じながら疑問を投げかけたいのです。
複雑なものは複雑なままに、難解なものは難解なままに、理解する力や考える力を身につける必要があると感じている僕は、いつの頃からかただの丸暗記を完全に断ち、全体像や物事の流れ、個々の関係性を把握しながら知識をつけていくことを習慣とし始めたような気がします。
哲学、英語、社会、国語、ゲームやマーケティング、そして漫画や小説...挙げればきりがないのですが、日々読書を欠かさないように、途切れないように...と細心の注意を払いながら、多くの文字に向かい合っております。
そんな中でここ数年?特に書店で多く目にしたような気がするのは「わかりやすく」「〜でもわかる」「図解シリーズ」「◯時間で理解できる〜」といったものです。
え?みんなそんなに理解に困ってることばかりなの...?そもそも理解しようとしてるの...?と頭の上にそれなりに大きなハテナマークを浮かべながら、書店に並んでる本を眺める機会が増えました。
もちろんタイトルだけでその本の良し悪しが決まるわけではありません。中には入り口は広く、そして深く理解したい人に対しては十分な情報量を提供している良本も数多く存在しているのだと思います。
ただ、個人的に感じることとしては、ここ最近「分かりやすさ」をセールスポイントにした書籍の存在が目立っている気がします。
売られている冊数や種数を数えたことはないけれど、各書店のビジネスや自己啓発棚によくよく積み本されているのを見かけます。
確かに生徒とか受講生にとってみれば「分かりやすさ」は正義で、一つの大きな評価軸になると思う反面、読書や学習、思考力というところから考えると、分かりやすい≒自分で考えなくてもよい領域が増える、ということだと思うんですよね。
伝える・理解してもらう・話すという相手ありきの行為だと「分かりやすさ」が求められる一方で、読解する・考えるという自分の行為に関しては、「分かりやすさ」に浸かり過ぎてしまうと、思考力や想像力が衰えていくような気がするのは僕だけでしょうか?
分かりやすさが非常に際立っているものは、細部において疑問を持つ部分が少ないと感じます。それは例えば、過去の偉大な哲学者の著作とかを読んでみると少しばかりでも雰囲気が分かると思うのですが、一読しただけでは本当に何を言っているのか、何を意図して書いているのかが分かりません笑
そういう理解しづらい、ある程度難解な文章と向き合って、「うわーこれ全然わからねー!」「この言葉をどういう意味で使ってるのか理解できない...」「10回くらい読み直せばいつの間にか分かるようになるかな?」なーんて考えながら、その作品を味わうのもなかなか興味深いなーと感じる今日この頃です。
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