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君も〈プラグマティズム人〉になれる!

 君はなりたいか。あこがれの〈プラグマティズム人〉に。もちろん、なりたいはずだ。何しろ「あこがれ」なのだから。(注1)
 だいじょうぶ。君も〈プラグマティズム人〉になれる。
 プラグマティズム思想を持っている人間は、他の人間とは違う行動が出来る。プラグマティズム的な行動が出来る。
 そのような〈プラグマティズム人〉になるためにはどうしたらいいのか。
 まず、〈プラグマティズム人〉がどのような行動をするのかを知らなくてはならない。

 確認しよう。
 私は、プラグマティズムについて三つの文章を書いた。

 この三つの文章で書いたように、プラグマティズムとは言葉(思考)を疑う思想である。言葉だけで済まさず、事例(行動)を検討する思想である。思考を明晰にするために事例(行動)を検討するのである。
 つまり、〈プラグマティズム人〉は次のような行動をする。
 
  言葉を疑うために事例をぶつける。

 
 言葉だけでは納得せず、「このような事例の場合はどうか」と考える。言葉を疑うために事例を検討する。
 ここまで書いて気がついた。
 既に、私はそのような行動をしてきた。

  〈プラグマティズム人〉とは私のことである。

 私は「言葉を疑」ってきた。「事例を検討」してきた。
 だから、私が〈プラグマティズム人〉である。そう考えると分かり易い。
 それならば、私の行動を確認すればいい。そうすれば、〈プラグマティズム人〉が分かる。

 では、私が何をしてきたか確認してみよう。
 確かに、私は「言葉を疑うために事例をぶつける」行動をした。例えば、次の文章である。

 私はこの文章で、「役に立たない研究はいらない」という言葉を疑った。「役に立たない研究」は怪しい言葉である。だから、ファインマン氏の事例をぶつけた。〈「役に立たない研究」と誰もが思った研究が最終的にはノーベル賞に繋がった事例〉をぶつけた。〈研究の最初の段階で、「役に立たない研究」を判別できるのか〉を問うた。
 「言葉を疑うために事例をぶつけ」た。つまり、〈プラグマティズム人〉である。
 また、次の文章でも同様の行動をした。

 〈面接では面接官の問いに答えるべきだ〉という趣旨の言葉に〈ウィトゲンシュタインの面接の事例〉をぶつけた。面接で「失礼」な言動をしても、ウィトゲンシュタインは合格した。面接は語用論的行動であるので、誰が言うかによって結果が大きく変わる。「問いに答えるべき」かどうかは場合による。
 このように「事例をぶつけ」た。つまり、〈プラグマティズム人〉である。
 次の特徴に注目して欲しい。
 「言葉を疑うために事例をぶつける」には、多くの事例を知っていなければならない。
 次の文章で論じた。

 多くの事例を知るためには、大量の読書が必要である。
 次の文章で論じた。

 大量の読書をすると、大量の本が出現する。大変なことになる。
 次の文章で論じた。

 また、「言葉を疑う」ためには相手の言葉を確定する必要がある。
 相手の言葉を正確に引用する必要がある。

 次の文章で論じた。

 まとめよう。
 つまり、〈プラグマティズム人〉とは次のような人物である。

  1 言葉を疑う。言葉だけで済まさず、事例をぶつける。
  2 そのために、たくさんの事例を知っている。
  3 事例を知るために大量の読書をしている。
  4 結果的に、大量の本を持っている。
  5 言葉を疑うのだから、相手の言葉を正確に引用する。

  
 これが〈プラグマティズム人〉の人物像である。
 思想を人物像で捉えようとするのは、思想を事実・行動レベルで捉えようとすることである。これは誠にプラグマティズム的である。
 思想を行動として捉えるのがプラグマティズムである。

 思想は行動に表れる。行動に差が表れないならば、思想に差は無い。
 プラグマティズムなら、そういう結論になるはずである。
 さあ、このような特徴を持つ〈プラグマティズム人〉に、あなたもなれる。しかし、ある程度の時間は必要である。三日では無理だ。

 三日では無理だが、三年でなんとかなる!
 三年間、「言葉を疑うために事例をぶつけ」続ければよい。
 具体的には、次のような行動を続ければよい。
 
 
  「(その主張の)事例を挙げよ」と相手に要求する。
 
 
 このように事例を要求し続ければよい。そして、思考実験として、自分でも事例を挙げてみればよい。事例を挙げるために、本を読めばよい。
 三年間、事例を要求し続ければ次のような状態になる。

  「言葉を疑うために事例をぶつける」行動が自然に出来るようになる。
  
 これで、言葉だけで済まさない傾向が身についた。
 これで、言葉を事実・行動レベルで捉える傾向が身についた。「言葉に騙されない」人間になった。
 おめでとう。
 君も〈プラグマティズム人〉だ。

 

(注1)
 
 PEVOの「ポクテキ賛歌」を思い出す人もいるだろう。

 君はなりたいかい
 あこがれのポクテキに
 君ならなれるさ
 いかしたポクテキ
 https://www.youtube.com/watch?v=1ukvStccV0g

 私は、この曲を聴く度に思う。
 「それは、『あこがれのポクテキ』だったら、『なりたい』よなあ。『ポクテキ』って何だか分からないけど。」
 これは「分析的」と呼ばれる特徴である。「あこがれのポクテキ」が「なりたい」を含意しているのである。(注2)
 
 
(注2)

 「(注1)」の言葉を疑う。
 
  「君はあこがれのユーチューバーになりたいか。」
 
 この問いには、「話すのが苦手なので、私はユーチューバーにはなりたくない」という答えがあり得る。
 〈一般的には「あこがれのユーチューバー」であるが、私は「あこがれ」ない〉という形式である。
 「君はあこがれのユーチューバーになりたいか」という問いは事実を検討することが出来る。「総合的」な解釈が出来る。
 つまり、「あこがれの~になりたいか」という形式が常に「分析的」であるとは限らない。(注3)
 
 
(注3)

 「(注2)」の言葉を疑う。
 「ユーチューバー」と「ポクテキ」は同じか。同じではない。二つは違う。
 「ユーチューバー」は事実を指し示す。様々な事実を思い浮かべることが出来る。現実のユーチューバーの行動を思い浮かべることが出来る。これは「総合的」である。
 しかし、「ポクテキ」はそのような語ではない。PEVO星人の使う言葉であり、地球人には意味不明なのである。

 「あこがれのポクテキ」は意味不明な語に「あこがれの」が付いた形式である。
 意味不明な語の指示対象は分からない。事実は分からない。従って、「分析的」に解釈せざるを得ない。
 〈プラグマティズム人〉も同様である。いきなり〈プラグマティズム人〉と言われても、意味不明である。だから、「分析的」に解釈せざるを得ない。(注4)
 
  
(注4)
 
 連続して、「言葉を疑」った。
 「言葉に事例をぶつける」行動の実例を示した。
 このような行動を三年続ければよい。
 それだけで、君もいかした〈プラグマティズム人〉になれる。

 
 

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