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小山田圭吾氏にパラリンピックの音楽を担当する「資格」があるか

 大学院におけるディベート的授業でのことである。
 私は「小学校では児童・教師全員が名札を付けるべきだ」と主張していた。(名札賛成の立場で論ずることになっていたのである。)
 すると、相手は言った。

 そんなに名札が重要ならば、なぜ、あなたは名札を付けていないのですか。
 
 これは「資格」を問う論法である。次のように問うているのである。

 お前にそれを言う「資格」があるのか。
 
 名札の重要性を主張するならば、自ら名札を付けるべきである。名札を付けていない人間に「全員が名札を付けるべき」と主張する「資格」はない。
 このように「人間」を問題にしているのである。「資格」を問題にしているのである。
 これは正当な論法である。
 名札を付けていない人間に「名札を付けるべき」と言われても説得力がない。「だったら自分が付てから言え」と思うのは当然である。
 しかし、この論法には次のような批判が考えられる。

 正しいことは誰が言っても正しい。

 この批判をどう考えるか。
 この二つの論はどちらも正しい。論述の次元が違うのである。(注1)

 1 意味論 正しいことは誰が言っても正しい。
 2 語用論 それまでの言動によって、発言の「資格」の有無が決まる。

 もちろん、「正しいことは誰が言っても正しい」のだ。しかし、正しいことを言う「資格」が無い人がいる。正しいことを言う言語行為をおこなう「資格」が無い人がいる。
 「暴力はよくない」は正しい。しかし、いつも暴力を振るっているヤクザが「暴力はよくない」と言っても受け入れられない。そう言う「資格」が無いのである。「お前が言うな」と思われるのである。
 私は何を論じてきたのか。小山田圭吾氏の問題を考えるための論理である。
 小山田圭吾氏の言動が批判されている。

 小山田氏は、若い頃、障害者を虐待していた。大人になってから、その事実を笑いながら話した。そして、オリンピック・パラリンピックの音楽担当に就任した。
 このような人物の「資格」を問うのは当然である。(以下、論旨を明確にするためにパラリンピックにしぼって論ずる。)
 
 小山田圭吾氏にパラリンピックの音楽を担当する「資格」があるか。
 
 パラリンピックは障害者スポーツの祭典である。障害者理解を進める場でもある。小山田圭吾氏は障害者を虐待した。障害者を笑い者にした。パラリンピックの理念に反する言動を繰り返してきた。だから、小山田氏にパラリンピックの音楽を担当する「資格」はない。
 では、先程と同様に反論について考えてみよう。
 
 音楽に罪はない。

 もちろん、「音楽に罪はない」は正しい。それは「正しいことは誰が言っても正しい」が正しいのと同じである。
 
 1 意味論 音楽に罪はない。
 2 語用論 それまでの言動によって、音楽行為の「資格」の有無が決まる。

 
 「音楽に罪はない」は正しい。しかし、その音楽をパラリンピックで演奏する音楽行為は話が別である。(注2)
 障害者を虐待した人の作った音楽はパラリンピックで演奏するのにふさわしくない。それは「音楽行為」の「資格」の問題なのだ。
 同様の事例を考えてみよう。
 不倫騒動をおこした川谷絵音氏が「いい夫婦の日」のテーマソングを作ることになったとする。大問題になるだろう。川谷氏にはその「音楽行為」の「資格」がないからである。「いい夫婦」に反する行動を過去におこなっているからである。
 初めの例に戻ろう。
 私は次のように批判された。
 
 そんなに名札が重要ならば、なぜ、あなたは名札を付けていないのですか。
 
 私はどうしたか。
 ポケットから名札を取り出して胸に付けた。
 相手は言った。
 
 持ってるの?(苦笑)
 
 もちろん、持っている。持っていなければ、発言の「資格」を否定されかねない。(注3)
 自分の言動によって、発言の「資格」の有無が決まる。それが一般社会の常識である。
 平たく言えば、次のようになる。
 
 生き方が正しくないと、行為の「資格」が認められない。
 
 小山田圭吾氏は「生き方が正しく」なかった。だから、パラリンピックの音楽担当としては認められない。「資格」が認められない。
 これが「音楽」と「音楽行為」の違いだ。
 意味論と語用論の違いだ。
 私は、小山田圭吾氏の「資格」を問うた。
 「資格」を問うと、問題の構造が見える。
 

【注記 7月26日】

 原典を発見したので、本文中のリンク先を次のものに変更した。
 
  『Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」全文

 変更前は次の文章にリンクを張っていた。
 
  小山田圭吾における人間の研究
 
 大筋で、この文章は原典である「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」から「いじめの事実」をまとめたものである。
 まとめの文章より原典の方が正確である。
 さらに、このまとめの文章には「小山田さんにとってアンフェアな傾き」があるという批判がある。
 以上の理由により、本文中のリンク先を原典に変更した。
 なお、原典の記述を基にしても、私の文章の論旨に変更はない。だから、リンク先以外の変更はない。
 

(注1)

 意味論・語用論については次の文章を参照のこと。

 
(注2)

 ワグナーの音楽を考えてもらいたい。
 イスラエルの重要な式典でワグナーが演奏されることはないだろう。
 それは「音楽行為」として捉えられるからだ。
 

(注3)

 なぜ、最初から名札を付けていなかったのか。
 少人数の授業なので、みんな私の名前を知っているからである。
 名札は、あくまで念のためである。

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