プラグマティズムとは何か
プラグマティズムとは何か。
『哲学・論理用語事典』(三一書房)には次のようにある。
【プラグマティズム】
〈行為や現実に重きをおく、反形而上学的傾向の思想明確化運動〉。 C.S.パースが、それまでの哲学理論や思想の、複雑さ、意味のアイマイさにたえかねて、《思想の意味をはっきりさせる方法として、その思想がどんな行動を生み出すかを考えてみよう》と提案したにはじまる。……〔略〕……
この定義の方向性は正しい。(注1)
パースは「たえかねて」いた。「哲学理論や思想の、複雑さ、意味のアイマイさ」に。それで、「アイマイ」な思考を「はっきり」させようとした。
つまり、プラグマティズムとは「思想明確化運動」なのである。思考の明晰化を求める思想なのである。(注2)
どう明晰にするのか。〈思考の生み出す行動(結果)を考える〉ことによってである。
具体的な事例を見てみよう。
ある時、ジェームズが散歩から帰ると、仲間が激論を交わしていた。
それはリスについてであった。〈人間がリスのまわりを廻っているかどうか〉というのである。
木の幹に付いているリスがいる。そのリスは人間に見られないように人間が動くと同時に位置を変える。人間が木のまわりを廻ると同時にリスも廻る。木をはさんでリスと人間は常に向かい合ったままである。この場合、人間はリスのまわりを廻っているのか。
そのような議論であった。
その議論を聞いたジェームズは次のように言う。
「どちらが正しいかは」と私は言った、「リスの『まわりを廻る』ということを諸君が実際にどういう意味で言っているかによって定まることだ。もしそれがリスの北から東へ、それから南へ、それから西へ、それからまたリスの北へと移行するという意味であるなら、その人は明らかにリスのまわりを廻っている、なぜというに、この人はこれらの位置を順々に占めて行くのであるからだ。けれども、もしこれとは反対に、最初はリスの正面におり、それからリスの右に、それからリスの背後に、それからリスの左に、そうして最後にまたリスの正面にいるという意味であるならば、その人はとうていリスのまわりを廻ることができないことは、これまた同様に明らかなことである、なぜかと言えば、人が動くと同じだけリスも動くのであるから、リスはいつまでたってもその腹を人の方に向け、その背はむこう向きにしたままだからである。こう区別を立てて考えてみたまえ、そうすればもはや議論の余地は全くなくなってしまう。諸君が『まわりを廻る』という動詞を実際的にどう考えるかに従って、諸君はどちらも正しいと言えるし、またどちらも誤っていると言えよう。」
〔W.ジェームズ『プラグマティズム』岩波文庫、Kindle本のためページ数不明〕
〈人間がリスのまわりを廻っている〉と言えるのかどうか。
それは「まわりを廻る」の定義によって変わる。廻ったとも廻っていないとも言える。
1 リスのいる場所のまわりを360度廻る。
2 リスの体の正面から背後にそしてまた正面へと360度廻る。
人は、リスのいる場所(つまり木)のまわりを廻っている。だから、1の意味では〈リスのまわりを廻っている〉と言える。
しかし、リスは常に人間に腹を向けているのだから、2の意味では〈リスのまわりを廻っている〉とは言えない。
このように「まわりを廻る」の定義を明晰にすれば、「議論の余地は全くなくなってしまう」のだ。
ジェームズの仲間には〈人間がリスのまわりを廻っているかどうか〉は哲学的な重要問題のように思えた。だから、激論を交わしていた。しかし、それはただの定義の問題だったのだ。
この事例を挙げてジェームズは言う。
……〔略〕……プラグマティックな方法は元来、これなくしてはいつはてるとも知れないであろう形而上学上の論争を解決する一つの方法なのである。世界は一であるか多であるか?宿命的なものであるか自由なものであるか?物質的か精神的か?これらはどちらも世界に当て嵌るかもしれぬしまた当て嵌らぬかもしれぬ観念であって、かかる観念に関する論争は果てることがない。プラグマティックな方法とは、このような場合に当たって、各観念それぞれのもたらす実際的な結果を辿りつめてみることによって各観念を解釈しようと試みるものである。今もし一つの観念が他の観念よりも真であるとしたならば、実際上われわれにとってどれだけの違いが起きるであろうか?
〔同上〕
リスの問題は哲学的な重要問題ではなかった。ジェームズは「プラグマティックな方法」でその論争を解決した。
「プラグマティックな方法」とは「観念」(思考)の「実際的な結果」を考えることであった。ジェームスは「一つの観念が他の観念よりも真であるとしたならば、実際上われわれにとってどれだけの違いが起きるであろうか」と言う。
〈人間がリスのまわりを廻っている〉と考えるか、考えないかで、「どれだけの違いが起きる」のか。「違いが起きる」ことは無い。それは定義の違いに過ぎないからだ。
ジェームズはこのように思考を明晰にした。
思考を明晰化しようとする思想がプラグマティズムである。
もう一度、確認しよう。
1 〈人間がリスのまわりを廻っているかどうか〉を議論している思考が混乱した人々がいた。
2 ジェームズは「まわりを廻る」には二種類の意味があることを指摘した。
3 〈人間がリスのまわりを廻っているかどうか〉はどちらであっても、「実際的な結果」に違いは無く、不要な議論であることが分かった。
プラグマティズムは混乱の解決を目指す。「形而上学上の論争」の解決を目指す。「アイマイ」な思考を明晰化を目指す。
混乱を解決するためにプラグマティズムは「実際的な結果」を問う。「実際的な結果」を問うことによって思考の明晰化を目指す。
〈思考の結果を問うことによって思考を明晰化しよう〉とする思想がプラグマティズムである。
リスに取り憑かれた人をリスから救うのである。ジェームズは人々の頭に取り憑いたリスを追い払った。リスのことなど、どうでもよかったからである。
このリスを「ジェームズのリス」と呼ぼう。
「ジェームズのリス」は混乱した思考の象徴である。
「プラグマティズムとは何か」と聞かれたら、「ジェームズのリス」を思い出して欲しい。プラグマティズムは〈リスを追い払おうとする思想〉なのである。(注3)
(注1)
方向性が正しい定義である。
細かい問題はある。C.S.パースが〈思想の明晰化〉を提案したことになっている。
しかし、パースが提唱したのは〈観念の明晰化〉である。パースは「思想」をプラグマティズムの対象にすることに反対した。
「思想」を対象としたのは、W.ジェームズである。
(注2)
ここは「観念の明晰化」と書きたいところである。
しかし、読者の理解を考え、一般的な語である「思考」を使った。
「思考の明晰化」という表記を用いた。
(注3)
この文章は「プラグマティズム」の説明として非常に正統性が高いものである。
ジェームズの著書『プラグマティズム』から事例を引用している。また、「プラグマティックな方法」も引用している。
そして、その二つを使って詳しく「プラグマティズム」を説明している。
これは、正に正統な「プラグマティズム」の説明と言えよう。
つまり、「プラグマティズム」と言えば「リス」なのである。