健康だったらそれでいいよ

コロナ禍になってからの期間、私は同じ日数だけ命の重さについて考えてる。

コロナが怖い感染症だから、というのもそうだけど、家族が病気になって入院して手術したから。

それも複数回。


コロナ禍の入院は、基本的に面会はできない。

荷物を届けに行った時にたまたま会えたことはあったけど、あとは入退院の手続きや、病院からの説明がある時に限られてる。

(※病院や状態によっても違うかもしれません)


一番辛かったのはもちろん本人。

だから、私が「辛かった」なんて、本当は言ったらいけないのかもしれない。

それでも、病名を告知されて背筋が凍りついたあの日のことは、ずっと忘れられないと思う。

気に入ってたはずの服も、あの日着てたからそれ以降着れなくなった。


心のどこかで、そんな大きな病名を家族が告知されるなんて、他人事だと思ってた。

テレビドラマの中の世界みたいに。


スタジアムになかなか行けないこと、リアルタイムで落ち着いてDAZNを見れない時も多いこと…、

遠方から応援するというのは、幼い日の自分が決めて勝手にやってることだけど、遠方ということでの制約は確実にたくさんあると、大人になるにつれ実感する時も多くなった。

サッカーという輪の中で、サッカーに関して恵まれてるか恵まれてないかに分ければ、たぶん恵まれてる方には入らないのかもなと、これまでは何となく考えてた。


だけど、そうじゃないんだなと思った。

家族が元気でいるのも、リアルタイムでは見れなくても空いた時間にDAZNを見れるのも、命の心配をせずに次の日に向けて眠れるのも、なんと幸せなことだったのかと改めて気づいた。

寝る前にサッカーの本を読んで寝るのも日課だったけど、それどころじゃなくなった。

前はたまにスタジアムに行った夢を見て、幸せな気持ちで目覚める日もあったけど、眠れなくなって、やっと少し寝たと思ったら病院関係の夢でうなされて起きた。


スタジアムに行くのだけが、行けなくても試合をDAZNで見るのだけが、スタジアム限定グッズを確実に買うことだけが、特に大事な試合でその場に居合わせることだけが、サッカーにおける幸せのものさしではない。

確かにそういうことも、忘れられない大切な日々の一つではあると思うけど、もっともっと基本的に大切なことに立ち返らないといけないと、本当に反省した。

それまでも、それができないことに不満を言ったりはしてなかったけど、家族も大切な人たちも自分も今生きてるって、それだけで素晴らしいことなんだなととても考えるようになった。


病院関係や家のことに追われてた時、身近な人に「もう、スタジアムに行ったりするのは無理かもしれないよ」とふいに言われた。

そんなこと、言われなくても分かってるよ。

いくらサッカーが大好きで、人生の上で他に代えられないものだったとしても、家族の命がどうこうという問題がある間は、何より家族のことを優先するのは当たり前。


だけど本音を言えば、毎日の中に「これを楽しみに頑張ろう」というものがない状態で、ただ家族の回復と退院を信じて待ち続けるのは、結構辛かったなあ。


本人は、気丈すぎるほどしっかりして、逆に「Nikoにたくさん迷惑かけてごめん」とこっちを気遣ってくれるほどで、そんな時に私があれこれ弱音を吐くなんて許されないと、電話で話しながら思ってた。


ただ、そういう状況になって見えたことも多くあった。

いい意味でも悪い意味でも、人の表面と心の奥は違うのかもと気付かされた。


普段しょっちゅう顔を合わせる間柄じゃなくても、普段そっけなくても、私が少しその状況を話しただけで、力になってくれようとした人もいた。

逆に、表面上はいい人に見えてた人に、この状況下でそれを言ってくるかなぁと感じる言葉を言われてしまったり。

ギリギリを経験して学んだことが本当にたくさん。


去年のコロナ禍の始まりの頃は、Jリーグも試合そのものが中止だったし、その後も無観客試合だったので、私に限らず「スタジアムでサッカーを応援する」日常自体がサッカーの世界から消えてしまった。

部屋に飾ったサッカー関係の写真やグッズを見ながら、たった1年前までのことをやたらと昔のように懐かしく夢のように感じてた数ヶ月だった。


ほとんどの人が、その子が生まれた時は「健康だったらそれで充分」と言う。

それはきっと本心だろうと思う。


でも、成長するにつれて、ああだったらいいのに、こうだったらいいのにと際限なく望みが出てきてしまう場合もある。

私もどっちかと言うと、等身大の私よりは多くのものを望まれたり求められたりしてきた気がする。

「生まれた時は健康だったらいいと思ったでしょ?なんでそんなにあれこれ求めるの(笑)」なんて冗談っぽく親に言ったこともあったくらい。

健康って本当に大事。

健康だったら、もうそれでいいよ。

家族にも、大切な人たちにも、自分にも本心からそう思うようになった。

どんなに大金があったって、どんなに高価な物を持ってたって、それと健康は代えられない。

もちろんいくら健康でも、倫理的に問題があるようなこと、人としてしたらいけないことをするのはダメだけど、健康だったらそれはもうそれだけで奇跡なんだと思う。


サッカーでも、チームの調子が悪かったり、誰かがミスしたりすると、ここぞとばかりに命に関わるような暴言を吐いたり、ひどすぎる批判をする人がいる。

負けることはとても悔しいこと、ミスだって決して良くはないかもしれない、でも命を大事に考えられる人は、誰かにそんな言葉は吐けないはず。


選手たちは誰も「これくらいでいいかー」「負けたってしょうがない」とは思ってないと思う。

だからこそ、心に苦悩を抱えてても、本当はどこかケガをしてても、それを隠して前を向いて闘ってるんだと思う。

仕事だとしても、それは誰もができることじゃない、素晴らしいこと。

人間としての価値はみんな同じで、選手だから神様というわけではないし、例えばどんなにプレーがうまくても人として尊敬できなければ、心からはきっと応援できないかもしれない。

それでも、選手は試合に出てる出てない関係なく、普段から厳しい中に生きてると私は思うし、だからこそほんの少しでも力になりたい。


サポーターの側も、熱く応援すればするほど、そのチームに肩入れすればするほど、負けたくない、勝ちたい、降格したくない、優勝したい、それは分かる。

分かるけど、その日試合があること、みんなが元気でいること、自分がサッカーに心を傾けられる環境にあること、どれも当たり前ではない。


私は家族の病気前から、昔からサポーターのわりに冷静さも持ち合わせてきたと思う。

それが、このコロナ禍の家族の入院や手術で、更に何段階も深いところで身にしみた。


ベルマーレの選手たちが、試合の前後にふとチームメイトと話したりして笑ってる時がある。

ベルマーレに在籍経験はないけど、私が個人的に応援を続けてる選手も、チームがやっと勝てた時にホッとしたような顔で、チームメイトとピッチで喜び合ってた。

そんな時、いつも私は思う。

“今日も健康でいてくれてありがとう”


勝利も勝点もいいプレーも確かに大切。

だけど、健康に生きてるっていうのは、何より大切で、忘れがちだけど本当は感謝を忘れたらいけないと思う。

まだ通院はしてるけど、おかげさまで元気になった家族が言う。

「Nikoも、家族や親戚も、Nikoがいつも支えてもらってる人たちも、みんなが健康だったら、もう他に何も言うことはないよ」

いつまでも元気にサッカーと繋がっていられるように。

大切な人たちに、ちゃんと気持ちや想いを届けながら生きていけるように。

私も健康に気をつけて感謝を持って生きていたい。

今度湘南に“帰れ”たら、涙が出るほど感動するんだろうな。

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