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長編小説『老人駅伝』④

 私と妻は、全員の日程を加味しながら、全体練習を週二日に決めた。水曜日の夕方五時と、日曜日の午前十時から、二時間程度。場所は、基本的に頭張市総合陸上競技場。タータンではないが、予約すれば無料で使える、地元ランナー歓喜のグラウンドだ。
妻は、最初の練習日を十月二日に設定した。つまり、私が駅伝に参加することを強要されてからちょうど一週間後だ。それまでの間は自主練を行っており、私自身のコンディションと走る能力は、自分でもびっくりするくらい向上していた。ま、何十年も走り続けている妻がサポートしてくれるのだから、当然と言えば当然かもな。過度な練習には絶対にならなかったし、アフターケアも万全だった。なんだか私は本当に、内石に勝てるような気がしていた。やはり自分にはランニングの才能があるな、と湯船に浸かりながら呟いたことすらもあった。ただし、練習と生活習慣で怠けるつもりはなく、適度な自信を持っているいい状態だと私は思っていた。……個人はともかく、駅伝に対しては不安しかなかったがな。
そして、不安はしっかりと、正確無比に的中した。
十月二日、日曜日の朝。目覚めて携帯を見てみると、一件の通知があった。悪ガキの親、川外勇也からで、「すみません。やらなければいけない仕事があるので、今日の練習は休ませて頂きます」という内容だった。私はため息をつき、頭を掻いた。まぁ、仕方がない。人にはそれぞれ事情があるのだから、練習にこれないことをとやかく言うつもりはない。大事なのは、事前に連絡をすることだ。高校の時、無断欠席で先生にど叱られたのはいい思い出だ。
私にとってはとてつもなく久しぶりの、練習と名のつく集まりであって、準備しながらも心臓と足の震えが止まらなかった。川外勇也の欠席をとやかく考えている余裕はなかった。 知らない誰かと練習するのって、思いの外緊張するよな。
が、総合陸上競技場につき、十時になった瞬間に、私の緊張は悪い意味で吹き飛び、当日に休みますという連絡をするのは遅くないか、という正直なところ思っていた川外勇也への怒りも舞い戻ってきた。なんと、無断欠席が二人もいたのだ。
どうなってんだ!
「ちょ、ちょ、弓子、おい、全然きてなくないか?」
私が大慌てで妻に聞くと、妻は朗らかに笑った。
「まぁ、こんなもんじゃない?」
 こんなものて、私が学生の時だったら許されないことだった。
私の険しい表情なんてなんのその、妻はきたメンバーを集めて、軽快に指揮を取り出した。
「今日はきてくれてありがとう。これから二か月ちょっと、皆で練習をして、全人類駅伝を、チームとして目指します。いい日々に、いいチームになっていきましょう。私は三浦弓子です。知ってくれてる人も多いかな。そして夫の義雄。基本的に私たちが監督兼選手って感じでやっていくから、よろしくね。それじゃあ、一人一人自己紹介をしてもらおうかしら」
「夕陽高校二年の、村神芳樹です。よろしくお願いします」
クールな好青年が頭を下げた。練習が始まる前から率先して挨拶しにきてくれて、私は彼に最初から好感を持っていた。真面目だ。
「山京大学三年、鈴木梨々香です」
そして鈴木梨々香。優しいオーラが全身から滲みだしているが、同時に、そのピンとはった背筋と、天変地異が起こってもびくともしないだろう落ち着きからは、ただならぬ選手の気配も感じる。艶のある黒髪ボブに、適度にふっくらとした唇、それから透明感のある肌……気持ち悪いよな、私。
この二人はかなりいい印象だった。しかし、しかぁし、こいつはダメだ。あの時の、ガキ!
「黒鳳小学校、伊藤隼斗」
 なんてぶっきらぼうな自己紹介だ。最年少にも関わらず、図々しいもの言い。どうあがいても、あの二人の双子が頭をよぎってしまう。しかもしまいにはこんなことも言うのだ。
「俺は、慣れ合うつもりとかない」
 この、ガキ! 小学生の分際で何を言っとる! 妻や梨々香さんは母性的な笑みを浮かべたが、私は微笑一つも浮かべなかった。
 練習が始まった。今日は顔合わせということもあり、軽めのジョグと一キロのタイムトライアルを行う予定だった。ジョグは皆で並んで、グラウンドをゆっくりと回る。寡黙という話を聞いていたが、村神君はかなり積極的に喋ってくれて、いい雰囲気があった。梨々香さんも、口数は少ないが、会話に消極的ではなくて、喋っている人を心地よくさせる力を持っていた。最も、一番喋ってうるさいのは妻だ。
「ねぇ、おじいちゃん」
 走りながら、ガキが喋りかけてきた。私は無視した。あんな自己紹介をする奴とは仲良くなってやらん。第一、慣れ合うつもりがないとお前が言ったじゃないか。
 無視していると、ガキもイラついてきた。
「おい、クソジジイ」
「おい、ヨボヨボの老人」
「骸骨!」
 なんて口の悪い奴だ!
「何だ!」
 私は思わず反応してしまった。
「そんなヨボヨボのボロボロで走れるの?」
 はい、こいつ、やばい。小学校六年生ってのは、もっと賢い生物だと思っていた。年長者に敬意を払い、礼儀正しいものだと。
「当り前だ」
「絶対遅いじゃん」
 どういう脳の構造をしていたらこんな生意気な言葉が浮かんでくるのか。ましてや、口に出せるのか!
「心配してるんだよ、俺は。年をとったら無理をしちゃいけないんだ。俺の足手まといになるなら、帰った方がいいと思う」
「うるさいぞ! 君!」
 私も我ながら短気だなとは思いつつ、もう我慢ならんってもんだ! これだからガキは嫌いなんだ! 
「ただ質問しただけだぜ!」
 口調も腹立たたしい! 漫画の世界から抜け出してきたんかワレ!
「そんなに走れるか気になるなら、走ってやる!」
「へっ、おじいちゃん、死んでもしらないよ」
「このガキが……」
「俺が勝負してやるよ、どれだけ走れるかみてやる」
「何で上からなんだこいつは。だが受けて立ってやるよ、年功序列ってもんを叩き込んでやる!」
 おいおい、こういうのは、入部したての生意気な一年生と三年生がやるような小競り合いだろ。十二歳の少年と六十五歳の老人がやるものじゃないだろう。だが、頭にきた。
 妻はすっかり呆れて、梨々香さんと村神君も若干引いてる中、私とガキの一キロタイムトライアルが開始された。本来ならば全員一斉に行う予定だったが、決闘の意味合いを込め、私とガキの一対一の直接対決になった。

 タイムトライアルなんて最後にやったのはいつだろう。しかもプライドをかけた本気の勝負だ。この年になってまだこんなことをするとは露にも思わなかった。ガキに対してこんなに熱くなる私もどうかと思うが、あいつもあいつで悪いと思う。
 勝負服、タンクトップと短パン姿になった私を見て、ガキが爆笑した。
「ださっ、ただでさえ短パン袖なしとかダサいのに、おじいちゃんが着るとマジで、なんか、気の毒になるわ」
 この……! さすがにこの発言には、妻がコラッとガキの頭を小突いたが、全然気にしている様子はない。聞くところによると、このガキ、普段はサッカー部に所属しているらしく、体力をつけるためだけに春季限定の陸上部に入ったそうだ。それで市の大会を優勝してしまったのは恐ろしいが、だからこそ、私だけでなく、陸上競技そのものを完全に舐めている。彼は明らかにサッカーのユニフォームにしか見えない服装で、なるほど確かに、並ぶと私の方が滑稽に見えることは認めなくてはならない。何年も陸上をやっていたから感覚が麻痺していたが、陸上のユニフォームはサッカーやバスケに比べるとダサい、と私は思う。皆もそう思うよな。スタートしてしまえばそんなこと関係ないさ。
 妻が手を叩いた。スタートの合図だ。
 私は渾身のスタートダッシュをかました。感覚はあの頃とさして変わらない。私は長距離専門の選手だが、かつて遊びで出た八百メートルでは、二分一秒の好記録を叩き出したこともあるスピードスター! 完璧なスタートだ!
 しかし、目線を上げると、前にガキがいた。
「なに!」
 走っている最中なのに思わず上ずった声が出てしまった。
 とんでもなくへんてこりんなフォームのくせに、速い。サッカー部&野球部あるある。こういうやつらがたまたま陸上部に勝って調子に乗るのが本当に腹が立つんだ。
 スタートで早速予定を狂わされて、少々焦ったか、私。序盤ながら、フォームが崩れ、自ら進んで苦しみに向かっているような走りになってしまった。
 ガキがどんどん離れていく。くそ。
 一周四百メートルが大抵のトラックの長さで、この競技場もそうなので、二周半走れば一キロだ。最初の二百メートルが終わり、残り二周になった頃には、私とガキの間には目測五百キロの差が開いていた。
 妻たちが声を上げる。
「ファイトー!」
「ファイト!」
「義雄、フォーム崩れてるわよ!」
 わかってらぁ。私は深く息を吐いて、冷静さを取り戻した。感情と走りは直結する。冷静さによって、私のフォームはいくらか改善された。
 するとどうだろうか、ガキのスピードが落ちてきた。段々と私との距離が縮まっていく。しめた、序盤飛ばし過ぎてバテてきたんだ。馬鹿め、初心者。
 が、私が意気揚々とガキを抜かした瞬間、ガキは突然スピードを上げ、瞬く間に私の遥か三億光年前方に飛んでいった。と思いきや、再びノロノロタラタラと、故障したブリキのおもちゃみたいな走りで私の近くに戻ってきた。
 やつが何をしているかがわかった。
 こいつ、わざと遅く走って煽っていやがる! 
私の怒りは頂点に達した。
「おっそ」
 おまけに振り向きざまのこの一言。
私の怒りは、頂点を突き抜けた。
 ラスト一周だ。私は必死に腕を振った。何が何でも負けたくなかった。最大瞬間風速で言えば、内石への対抗心にも匹敵しうる爆発力だった。
 私は、ついにガキより体一つ前に出た。視界が開ける。砂の道が広がり、競技場のスタンド、フェンス外の木々、周りの景色がよく見える。
 そうだ、これが勝者の景色!
 が、私の高揚感は束の間。すぐにガキが余裕綽々の表情で私を追い抜かした。そのまま加速する。加速する。加速する。全然追いつけない。全身に乳酸が溜まり、手足が動かない、息が上がって、びっくりするくらいに苦しい。死にそう。
「ラスト!」
「ラスト百メートル、上げて!」
 わかってる。上げたい気持ちは山々なんだけれども!
 フォームが崩れ去っているのはよくわかった。視界に時々青空が映るのだから。一体どんな走りをしているのか、考えたくもない。
 ガキに完敗したこともよくわかった。周りに気配を感じないのだから。
 私は命からがらゴールして、地面に倒れるのはよくないことだとは思いながらも、動けずに地面に倒れた。情けない恰好だ。汗が皴と皴の間に流れる。骨が浮き出ている細い腕が痙攣している。
 私は年齢を呪いたくなった。自分でも驚いて仕方がなかったが、なんなら涙も出そうだった。ガキに負けたことに対してというよりは、老いに対してとか、人生に対してとか、なんか、そんな漠然としたものへの、一方的な恨みというか、後悔というか……わからん。

 このまま地面と一体化して土にでもなろうかとも考えたが、私の老いた体はまだそれを許さず、やがて荒れた呼吸が元に戻ってきた。次に考えたのは、ガキにどんな腹立たしい言葉を投げかけられるだろうか、ということだった。当然、あいつは勝ったのだから、しかもあれだけ挑発的な走りで余裕をもって走ったのだから、調子に乗るに違いないだろう。
 足音。ほらきた。
「なんだ」
 私がぶっきらぼうに、顔も見ずに言うと、ガキはやけに静かな声で言った。
「弓子さんが、じじいと一緒にダウンしてこいって」
 ん?
「お、おう……」
 私はまだ事態が呑み込めず、おどけた顔で立ち上がり、異様な静けさを突如として纏ったガキと一緒に、ダウンを始めた。ダウンとは、まぁ整理運動と考えて貰えればいい。
私たちがダウンのジョグをしている横で、村神君と梨々香さんが颯爽と通り抜けていった。かなりいい走りだ。
ゆっくりとしたジョグの中、ガキが呟いた。
「凄かった……ちょっと」
「え?」
「六十五歳で、あんな走れるなんて」
「おぉ……」
 ガキは終始顔を背けていた。
「俺のおじいちゃんなんか、犬の散歩だけでゼェゼェ言ってる」
「……そうか……」
 突然こっちを向いて、ガキは頭を下げた。
「調子に乗った走りをして、ごめんなさい」
 その時、私は何が起こってガキの態度が一変したかを悟り、笑った。
「ははは、お前、さては俺がゴールしてへばっている間に、弓子にめっちゃ怒られただろ」
 ガキは素直に頷いた。私はもっと笑えてきた。
「謝れって言われたか」
 ガキはまた素直に頷いた。
「怖かったろ」
 ガキはまたまた素直にうんと頷いた。私はもっともっと笑えてきた。
 最終的には、私の笑いにつられて、ガキ……いや、隼斗も笑い出した。

 練習一日目はこうして終わった。


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