![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/154702284/rectangle_large_type_2_a8ad3d9c2dca5eb0e1ad6c8a2ef7dbcb.png?width=1200)
長編小説『老人駅伝』①
何歳になっても走り続ける人間たちのお話です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
妻が長距離記録会から戻ってきた。
「ただいまー」
私はよっこらしょ、と呟きながら椅子から立ち上がり、玄関先に顔を出した。
「おかえり」
妻は軽やかに靴を脱いだ。一方の私は立ち眩み。
「あのさー、義雄」
「うん?」
「駅伝に出ない?」
「駅伝ってその、走るやつ?」
「それしかないでしょ」
「何言ってんだ、もう六十五歳だぞ」
「私だって六十五歳だけど、出るつもりよ」
妻の瞳は、マジだった。
老人駅伝!
疲れているはずなのに、家に帰っても妻はせわしなく動いている。脱いだ靴を綺麗に並べ、シャワーを浴びる。シャワーから出たらストレッチをして、使った服やタオルを洗濯にかける。ランニングシューズの汚れをふき取り、リュックサックから中身を抜き、全てを元の位置に戻す。それだけならまだしも、スマホを取り出して、なんと今日の試合の動画を見始めた。自分の走りを確認して、発見した反省点と、腕時計で計測したラップタイムを、陸上ノートなるものにつらつらと書き留めていくのだ。いやいや、元気すぎないか?
その間私が何をしていたかというと……何をしてた? 何かはしていたはずだぞ、そりゃ、生きていたわけだから。
妻は夕食の準備を始めた。彼女はランナーとして、食事にも気を使っている。炭水化物を抑えて、たんぱく質を多く摂っている。昔は白米を食べろ、白米を食べてりゃ強くなる、と監督に言われ続けた記憶があるが、炭水化物には糖分が結構含まれていて、私が思っているより、体にいいものではないようだ。一応料理担当は私と妻で日替わりだが、私が作っている間にも横からやれ「塩を入れすぎ」だの、「やっぱり今日は違う料理にしない?」だの、文句が逐一飛んできて、結局キッチンから追い出されてしまうこともしばしばで、ほぼ妻が作っているといっても過言ではない。
最も記憶に新しい喧嘩は、私が手間暇かけて作った天ぷらを、妻が衣を剥がして食べ始め、私がブチ切れたことだ。
ただし今日は、たっぷりお米を食べる気らしい。なにせ、大会の後だ。自分へのご褒美がなければやっていけない、と妻は言う。異論はない。むしろ、やったぁっていう感じ。今日はお米がたくさん食える。炊飯器から、私たちの好物、栗ご飯の香ばしい匂いが漂ってきた。……ま、それでも白米ではなく玄米なのだが。
「今日はどうだった?」
久々の炭水化物は美味しい。冗談抜きで美味い。妻に半ば強制されて、私も炭水化物抑制生活を送っていたのだ。ご飯と栗の糖分が絡み合ってまぁたまらない。そろそろ真剣に、死ぬ前の最後の食事はどうしようかと考えているところなんだが、大多数の日本人が言うように、白飯に落ち着いてしまうかもしれないな。やっぱりご飯はいい。
しかしどうだろう、たんぱく質生活は私の体に効果をもたらしているのだろうか。腰は痛いし、膝も痛いし、目はかすむし、肩は軋むし……はぁ、年には敵わないんじゃないか?
「二十三分十二」
妻は今日の記録を呟いた。
「ベスト?」
「いいや、惜しかった。あと五秒足りなかった。結構涼しかったから行けると思ったんだけどなぁ、ちょっと疲労が抜けきらなかった感じがあったのよ」
「残念だな」
「そうね。でも楽しかった」
妻は心からそう言っているようだった。なんとなくだが、私が食べている栗ご飯よりも、彼女が食べている栗ご飯の方が美味しいのではないかと思った。
「しかも凄いのがさ、私よりも年上の選手が今日は五人もいたのよ。しかもその一人は七十歳」
「ふぇー」
「私も負けてられないし、あなたも負けていられないよね」
私の箸が止まった。
「は?」
「駅伝」
玄関での会話は、幻覚ではなかった。私は話を逸らすべく栗ご飯をかき込んだ。
「あぁ、美味しい」
妻は些かむっとして、綺麗に整頓された棚から緑色のファイルを乱暴に取り出してきた。先程リュックサックに入っていたものだ。
私はそれでも理性を強く持って、ファイルに視線を送ることはせず、栗ご飯だけに一点集中していた。
さらにむっとした妻は、ファイルから一枚のチラシを取り出し、より乱暴に私の前に置いた。怖かった。私の茶碗やら湯呑らを、音を立てて強引に除去し、否が応でもチラシを見せてきた。
第二十六回 頭張近郊全人類駅伝
開催日 十二月十一日
場所 頭張駅周辺(コース詳細は別紙)
対象年齢 小学生から百二十歳まで
私は栗ご飯を口から吐き出すところだった。もしくは、喉に詰まらせて死ぬところだった。
「なんだ、このふざけた……!」
「私たち、まだ対象年齢の半分くらいの年齢よ」
「ふざけすぎだろ」
「私たち、これに出ましょうよ」
妻が純粋な目で見てきた。非常に困る。私は視線を逸らした。
「何で、急にこれを?」
妻は自分の席に戻って、美味しそうに栗ご飯を食べ始めた。グイグイきすぎず、一旦引くあたりが、どうも策士じみてて気に食わない。最も、策でも何でもなく、天然でこれをやるのが私の妻なのだが。
「今日の記録会でね、うちの市長もきてたのよ」
「来賓でか?」
「ううん、選手として」
「えっ」
「凄いでしょ」
「嘘だろ、市長何歳だっけ」
「私たちより五歳くらい下じゃなかったかしら。激務の中トレーニングしててね、よく記録会とか市の練習会にきて、なかなかいい走りするのよ。最近大分仲良くなった。それで今日、市長が私にこのチラシを見せてくれたの。頭張市で開催する大会なのに、最近は頭張市のチームを出せていないのが悔しすぎるって言っててね。市を盛り上げるためにも、私の選考でいいからチームを作って出場してくれないかって」
「おぉ、頑張れ」
「だから、一緒に出ましょうよって!」
「何キロ?」
「四キロ」
いくら市長の勅令とはいえ、とても無理だと思った。四キロっつったら、ここからオーストラリアまで行って帰ってくるくらいの距離がある。私からしたら。
「長すぎる」
「まだ三か月あるから、トレーニングすれば大丈夫よ」
「無理だ」
「大丈夫、私がサポートする」
「走りたくない」
「仕事辞めて暇でしょ」
「暇か暇じゃないかと聞かれたら、そりゃ暇だよ」
「じゃあ一緒に出ましょうよ」
「じゃあってなんだよ、嫌だよ」
「毎日、ダラダラと生きてたら、あっという間に死ぬわよ」
「だから、走ることを生きがいにしろと?」
「そう、趣味として」
「走ることを趣味ににしたら、それこそ死んでしまう」
「まさか!」
「もう体はボロボロなんだ」
「家に引きこもっている方がボロボロになるわよ。ねぇ、義雄。人生は一回きりなのよ。私たちの残りは、もしかしたら本当に短いかもしれない。こんな無駄な生活を続けながら最後を迎えていいの?」
「無駄とは何だ、無駄とは」
「仕事辞めてから半年、何をした?」
「……」
昨日何があったかも覚えていない。年のせいだ。仕方がない。
「悔いなく生きようよ。目標に向かって進み続けようよ。年齢なんて関係ない。新しいチャレンジをしてみない?」
「悔いなんてない!」
私は話を終わらせるために大声を出した。嫌な静寂、滲む後悔。しかし、それこそが妻の狙いだった。
妻は、ファイルからもう一つの資料を取り出した。
「まぁ個人情報ではあるんだけど、こっそりと市長が私に見せてくれて、あなたのためにコピーした」
「だめだろ……」
それは、市に提出された駅伝のエントリーシートだった。つまるところ、全人類駅伝に出る気満々で、早くもメンバーを全員集めて市に登録したチームの情報が書かれているというわけだ。もちろん電話番号や住所は消されていて、ほとんどの情報は読むことができなかったが、そんなもの読む必要はなかった。私の目は、たった四文字に釘付けになっていたのだから。
内石 心蔵
「内石……!」
「覚えているでしょ?」
覚えている。忘れているわけがない。この名前にまつわるあの記憶は、あの体験は、忘れたくとも忘れられない。今でも不意に思い出すことがある。別に戦場の記憶というわけではないのに、急にフラッシュバックしてくる、おぞましい恐怖のような雰囲気と共に。あれから何十年が経った?
「私も覚えている。ゴールで待ってたもの」
妻は淡々と言った、ように聞こえた。
鮮明に覚えている、わけではない。大抵の記憶と同じように、ちゃんと忘れている部分もある。けれども、一番忘れたいあの瞬間の光景と、あの悔しさ、惨めさ、憤り、感情たちは、何故か時と共に増幅していくのだ。きっと誇張され、当時の気持ちよりも遥かに質が悪く、淀んで濁っているに違いない。それがわかっていながらも、私は苦しむ。こみ上げてくる感情は、恥ずかしさに似ていた。
「最後の駅伝だったよね」
そう、最後の駅伝、高校生活最後の駅伝。三年生の十一月。他の同い年の部員は春先に最後の大会を終えて引退していたが、私だけは、後輩たちを東海大会へと連れて行くために、夏を越えて走った。受験勉強と並行しながら、この駅伝のために練習した。
私はアンカーだった。このままの順位を維持できれば、東海大会への切符を手に入れることができた。
ラスト二百メートル。
ゴールテープは見えていた。
歓喜の瞬間を待ち構えて応援してくれるチームメイトの姿も見えていた。喉を枯らしながら私を応援していた。後輩も、先輩も、同級生も。
突然、右隣から塊がヌッと現れた。人じゃないみたいだった。でも人だった。しかも相手選手だった。負けられない。負けたら入賞を逃してしまう。
疲労困憊だったと思う。腕が振れなかったと思う。呼吸は乱れに乱れていたと思う。でもそれは覚えていない。もっと走れよ! 今の私はその時の私にいつも怒鳴りたくなる。
あっという間に置いていかれた。ゴールが見えていながら、そのゴールは私を歓迎しなかった。私を抜いた選手が加速していく。私はその場で足踏みしているかのよう。
記憶はそこで一旦止まる。
再び戻った記憶では、私は地面に手をつき、荒い息を吐いていた。地面に垂れるのは、涙か、汗か。左の方から、仲間たちが駆け寄ってきてくれた。何か言葉をかけてくれたような気がする。
私が地面から視線を上げると、すぐ目の前で騒ぎ立てる人々の輪があった。彼らの顔は笑顔でくしゃくしゃで、みずみずしい。雄叫びを上げている男子、飛び跳ねているマネージャー。感涙している後輩、達成感に包まれている選手たち。その中心には、私を瞬く間に、しかし劇的に追い抜いたヒーローが、私とは比べ物にならない歓喜を纏って笑っていた。
きっと時系列にはもう少しだけ後のことだが、記憶では地面に這いつくばったすぐ後に、私は彼とすれ違った。
「お疲れ」
私がそう言った。負けはしたが、彼と同じ土俵に立っていたかった故の発言だ。
「あぁ。三浦、遅かったな」
「勘弁してくれよ、三年生だぜ、勉強もしないといけないだろ、練習量は減るわ」
「俺だって三年だ」
「そうだけど、お前は市立だし推薦もらって――」
「意味あった?」
「え?」
「この時期まで走った意味。遅すぎるだろ」
「リベンジ」
妻の口から出た言葉だと思っていたが、私の口も開いていた。どちらが言ったかはわからない。
「もう六十五だ」
「内石君も六十五」
「あいつは、実業団に入った」
「関係ない」
「ある。俺は走っていない」
「全く走ってないわけじゃないでしょ。私と一緒に走ることもある。普通の六十五歳よりは遥かに体ができている。というか、いつかリベンジしたい気持ちがあるからたまに走ってるんじゃないの?」
「違う、健康のためだ」
「じゃあなんでスピード練習もペース走もやって追い込んでるの? そこまでする理由は?」
「健康のためだって! 第一、あいつはそう簡単に勝てる相手じゃない。今だって毎日練習して、記録会にも出ているだろ!」
「何でそんな情報知ってるの?」
「お、お前の結果とか調べた時に、たまたま」
妻はため息をついて、声のトーンを落とした。
「いい機会よ。ここで悔しさを晴らそうよ」
「もう六十五だ」
「またそれ」
「事実だ」
「悔しくないの?」
「何十年前の話だと思ってる」
「じゃあ出ないの?」
「出ても勝てるわけないだろ」
栗ご飯が飛び跳ねた。
「勝てる勝てないじゃない! やるか、やらないかでしょ! うじうじうじうじうじうじうじうじ、子どもみたい。あんたもう六十五でしょ! さっさと、今、決めなさい!」
なんというかその、私は勢いに弱いんだ。
「やるよ! やる! 走る!」
気づいたら口走っていた。
「約束する?」
「する! するから、落ち着いてくれ……」
罠にはめられた。私はすっかりリベンジという言葉だけに没頭しており、これが駅伝だということを忘れていた。駅伝はチームスポーツだ。
「よし! じゃあ早速仲間集めを始めよう。目星はつけてあるのよ。市長のお願いだもの、せっかくなら強いチームを作りたいからね」
「ちょっと待て。リベンジなら、普通に俺があいつと同じ記録会に出ればいいだけの話じゃないか。わざわざ駅伝でリベンジする必要はない」
「は? 約束をもう忘れたわけ? 私は約束を破る男と結婚したわけ?」
「う……」
「うし、明日から練習と仲間集めね! 忙しくなるわ!」
罠に、はめられた!
続く