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個人のゴジラと皆のゴジラ
『ゴジラ-1.0』のネタバレ含まれます。
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今回のゴジラには、社会的な意味が含まれていない印象でした。原爆のメタファーも、戦争のメタファーも、あるはあるんだろうけれど、徹底されてはいなかったと思います。
あるのはただ、主人公敷島の心の内にある葛藤ややるせなさのメタファー。要するに、ゴジラを極限まで個人的な存在として描く点に今作の特徴があり、僕はそのアプローチに大変感銘を受けました。
なんだか、純文学を読んでいるくらいの、個への探究を感じたのです。ただ、これは大衆映画です。純文学とは違って、解決しないといけないんですよね、たった二時間ちょっとで。そのため、今作のゴジラはただの敵なんです。
大衆ウケを狙って作品が作られています。となると、個とゴジラの関係を深堀りしていくのはいいけれど、最終的には、全員でゴジラを倒して日本を守ったぞ、万歳! に収束してしまい、そうなると今度は、ゴジラの存在感の弱さや、群像劇の弱さが目立ってしまうのです。
敷島の内奥をえぐるだけなら、ゴジラの概要はいりません。でも、日本に危機を与えるゴジラを、団結して倒す話ならば、ゴジラとは何者で、何が目的なのか、といったディティールをもっと見せてくれてもいいはず、と思ってしまいます。
敷島がゴジラを単体で倒すだけなら、作戦の臨場感や他の登場人物らの気持ちはいりません。しかし、日本に危機を与えるゴジラを団結して倒す話で人々を楽しませるのなら、やはり作戦にはえげつない失望と、ありえない方向からの解決策が必要です。登場人物らが抱えているだろう、戦争、命の軽さを、生きて帰ってきてしまった後悔、それらを強調して欲しいです。
と考えると、やはりゴジラはただの敵じゃダメなんです。例えば放射能のメタファーとして、もっと残酷に、事実に即して描写をしなければ、まず「ゴジラを倒したー、よかった」という満足感に繋がらないし、次に「楽しかったけど、ちょっと日本の歴史とか戦争とか、原爆の問題とか考えちゃうよな」といういい大衆映画が持つ余韻にも繋がりません。
まとめると、敷島の内面描写と、ゴジラ倒すぞ娯楽映画の相性が、よくなかったかな、と思います。敷島の内面はめっちゃよかったし、ゴジラの恐怖や迫力、カメラワークや音楽もかなり、かなりはまる部分がありました。それこそ、トップガン・マーヴェリックを見た時の、映画館でしか味わえない極上の体験に似た感覚も抱きました。感動の畳みかけの手腕はさすがで、涙が滲む場面もたくさんありました。しかし、しかし、先程書いた部分。純文学と大衆映画のコンビネーションがうまくいかなかったため、変な間が空いたり、各パートで少しずつ不満がたまっていったのも、個人的な本音です。