見出し画像

長編小説『老人駅伝』⑤

どうなってんだ!
翌週水曜日の午後練にも、私と妻、梨々香さんと村神君と隼斗しか姿を現さなかった。つまるところ、依然同じ三人がきていないということだ。当日の昼に携帯を開くと、川外勇也からのメール。「すみません、仕事が長引いていけません」他二人は無断欠席だ。
 どうなってんだ、と私が喚いても、妻は苦笑するばかり。
「まぁ、こういうものでしょ。後から連絡してみるから」
 確かにこういうものなのかもしれないが、そうは問屋が卸さない。ただの駅伝ならば私だって別にどうだっていい。だが、これは私のプライドと復讐がかかった激しい一戦なのだ。やると決めたからには、やりたい。私の真面目で真っすぐな精神が叫んだ。
 先日、心のどこかではあるかも、と思いながら、何の気なしを装って、家の押入れを探索したところ、高校生の頃に書いていた陸上ノートを手に入れた。五十年弱の月日が流れ、紙は黄ばみ、朽ち、古文書のようになっていたが、確かに私の字で、私の三年間の積み重ねを記した書物だった。捨てていなかった。その日の練習メニュー、反省点、良かった点、そして、先生からのコメントが書いてある。もう先生も天に召しているだろうな。
 その陸上ノートの一冊目。高校一年生の春に書き始めたノートをパラりと見たところ、一ページ目、目標の欄に、でかでかとこう書いてあった。
「打倒内石とインターハイ出場」
 汚くて幼い自分の字を見て思い出した。私は青春時代の全てを、内石に勝つために注いでいたということを。
彼とは小学校から一緒で、常に走りでは負けていた。それこそ、小学生の春に行われる陸上大会から敗北の記憶がある。確か彼は、長距離だけではなく、百メートル走と幅跳びでも悠々と優勝していた記憶がある。とはいえ正直、小学生の時は、彼に負けることをその場では悔しくは思いつつ、すぐに忘れていた。
中学校に上がって、私はあまりに負け続けた。私は陸上部に入り、彼はサッカー部に入ったのだから、どう考えても単純な走りでは私が勝たなくてはならなかった。だが、負けた。頭がおかしい私の中学校では、一か月に一回体育の授業で千五百メートル走の計測があり、そこで負け続けたのだ。大衆の面前、とりわけ、数多の女子の前で、私は一か月に一回必ず醜態を晒さなければならなかった。誰かの口の中で何百回も噛まれたガムのような顔をして走る私を、そよ風の如く涼しく爽やかな表情の内石が颯爽と抜かしていく。女子の「きゃーーー!」なんて声。それは全て内石に向けられたものだった。いや、別に黄色い声だけを求めていたわけではないんだけれどもね……まぁ、そういうことだ。当時の価値観でいうと、女子一人の声援は、男子一億人の声援に匹敵する。そして、極めつけは、あろうことか、サッカー部の内石が、私立高校から陸上推薦を受けてしまったことだ。もちろん、私にはそんな声は一言もかからない。一応、県大会にも出場したのに。
彼は、毎月私に勝っても、自慢することは決してなかった。だが、それが逆に、私の心をズタズタにした。真顔で、涼しい顔で、何も言わずに私の前を通り過ぎる。私になんか勝って当然だと考えているのだと思った。私のことなど眼中にないのだと示していると思った。私は典型的な努力友情勝利の少年だったから、内石と闘志むき出しのライバル関係になれていたら、お互いを切磋琢磨し合える仲になっていたと思うんだ。

「陸上推薦きたの?」
「うん」
「行くの?」
「行く。もっと強い人と戦いたい」
「……」
 ……。
 打倒内石
 書いた時の心境をそのまま思い出したわけではなかったが、確かに高校一年生の私と今の私とがリンクした。勝ちたい。今度こそ。
 いや、だから、なんで駅伝である必要があるんだって話だ、もう。私一人がいくら情熱に溢れようとも、他のメンバーが怠慢を極めていちゃ意味がないじゃないか! 私はこれだけ本気になっているのに、自分のことだけに集中してはいけない現状。しかもチームメンバーはガキばかり(一人おじさんが混ざってはいるけれども)。年齢と苦い思い出のせいで、喋るのも憚られる。ましてや「練習にきなよ」なんて言葉を言うだなんて、プライドが許さない。
 しかし。
 打倒内石
 意欲に溢れ、血気盛ん、やってから大後悔するタイプの人間だった、かつての若い私が、年老いた私にこう言った。今必要なプライドは、一つだけだ。

「ちょっと、ちょっと、隼斗君」
「何? おじい」
「おじいってなんだよ」
 十月五日、水曜日の練習後、私は隼斗に声をかけた。
「隼斗、お前陣在太花と同じ学校だろ?」
「うん」
「何であの子がこないか知ってるか?」
「知ってる」
「教えてくれ」
「知っているけど、わからん」
 私は困惑の表情で隼斗を見つめたが、私以上に隼斗の顔は困惑で埋め尽くされていた。
「どういうこと?」
「わからん。別に仲がいいってわけじゃないんだけど、この前学校で見かけたから声をかけたんだ。練習にこないのかって。そしたらなんかさ、面白くないから行かないんだって」
「何が面白くないんだ?」
「それがわからないんだって」
「きてもないのに?」
「だからわからないんだって!」
 私たちは数分黙り込んだ。そして隼斗が一言。
「あんたに魅力がないんじゃない?」
 私は飛び蹴りをしようとし、膝を少し痛めた。

 翌日早朝六時半。失礼を承知で、私は川外家のチャイムを鳴らした。この時間帯なら確実に川外勇也がいるとわかっていたし、練習するならこの時間帯が適切だと考えていた。
 寝起きの川外勇也登場。寝ぐせが弾け、メガネはずれている、パジャマ姿。私を見て驚き、心底嫌そうな顔をした。
「やぁ、朝早くからすまないね」
「な、な、なんですか?」
「一緒に早朝ランでもしないか?」
 川外勇也は驚き、慌てふためきながらも拒絶した。
「いや、あの、無理ですよ。今日も仕事があるんです」
「三十分だけ、全体練習にこないから多少心配でね」
「それは本当に申し訳ありません。でも仕事の方がうんたらかんたら……」
 言い訳だけで三十分経過。この時間だけで十分に走れる。私はひとまず川外家から退散した。
 自分の練習を終えた後、夕方には授業が終わった黒鳳小学校に乗り込んだ。校門から元気に出てくる小学生に片っ端から尋ねた。
「陣在太花は知ってる? どこのクラス? 今どこにいる?」
 そして不審者として捕まりかけた。校長先生が口をきいてくれなければ、私は今頃留置場にいたに違いない。

 次の日、早朝六時半。
 私のチャイム。いよいよ冷え冷えとしてきた静かな住宅街に、やかましいチャイム音が鳴り響いた。抵抗してか、一回のチャイムでは、川外勇也は出てこない。
 私のチャイム! 一回で諦めるわけにはいかない。反応なし。
私のチャイム! 三回目! 反応なし
長期戦を覚悟して四回目の体勢に入りかけたところで、川外勇也が怯えた顔で玄関の戸を開けた。
「やぁ、おはよう――」
「無理です!」
 川外勇也は音速で家に戻っていった。
「いいスプリントだな」
 さらにチャイムを押そうした私だったが、向かいの家の住人に窓から睨みつけられたので、ひとまず拠点に戻ることにした。
 午後、私は懲りずに黒鳳小学校に乗り込んだ。何人かの生徒からは、昨日の不審者だ、みたいな目で見られたが、気にしない。それに、今回は隼斗が私を出迎えにきてくれた。先に陣在太花が帰ることを恐れ、帰りの会が終わってすぐに、誰よりも速くダッシュで校門まできてくれたらしい。息が上がっている。
アクティブな小学生男子像というのは昔からあまり変わらないようで、隼斗は十月にしてまだ半袖半ズボン、ランドセルの蓋は空いていて、礼でもしようものなら中の物が一斉に地面に散らばるだろう。
ともあれ、昨日からこうすればよかったのだ。内通者がいれば、情報入手も潜入も容易い。
 私たちが学校に戻ってすぐに、下駄箱から陣在太花と思わしき人物が出現した。
「よし、走るぞ!」
 トム・ソーヤ作戦だ。気になる女の子の前でわざと目立つ行為をして、気を引こうってわけだ。どうにもちゃっちくて古臭い作戦に思われるかもしれないが、彼女には効果的かもしれない。面白くない、とは何なのか、私はよくよく考えた。恐らく陣在太花は私たちの活動に興味がないだけだ。行きたくないわけではない。こちらからアプローチをして、私たちの存在というものに気づいてもらえれば、練習にやってくるに違いない。つまり、私に興味を引かせることが、陣在太花が言う面白さにマッチするのではないかと思ったのだ。例えどんな馬鹿げた方法だとしても。
「あいつは、何だか野生生物みたいな感じがするよ」と隼斗は失礼なことを言っていた。
 私はジャージを脱ぎ、ランシャツランパン姿に。隼斗は例のサッカーユニフォームに。
そして私たちは、白くつるつる滑る、小学校特有の悪質グランウドを滑走し始めた。無我夢中のダッシュだ。
「うおおおおおおお」
 敢えて声も出す。大勢の生徒がこちらを見た。下級生なんかは、意味もなく喝采を上げる。私たちは調子に乗って、五回くらいの大声ダッシュを敢行した。
 小学生の盛り上がりは上々で、手ごたえを感じた。
 しかし、紅潮する顔で私たちが下駄箱の方を見た時には、陣在太花のスキップする後ろ姿が校門の奥の方で見えるだけだった。
「な、何でだ!」
 私は頭を抱え、隼斗は何故か怒って地面を蹴っていた。
 しかもまた面倒くさいことに、純粋無垢で立派な正義感を持っていた誰かが、「グランドに変態がいます!」とかなんとかを職員に告発したらしい。職員室からワッと先生方が群がり出て、瞬く間に私は身動きを封じられた。校長先生が口をきいてくれなければ、私は今頃リンチにあっていただろう。

 次の日、早朝六時。チャイムの前で急に罪悪感が湧いてきた。川外勇也が土日休みなのかは知らないが、もし休日だった場合、せっかくの至福を朝から邪魔するのは、いくらこれまで川外家の子どもたちに同じことをされたとはいえ、気が引けた。それに、次の日は全体練習があった。流石に、練習にきて欲しいという私の気持ちは伝わったはずなので、それを信じることにした。

 十月九日、日曜日。川外勇也と陣在太花は練習に姿を現さなかった。
「ああああ!」

いいなと思ったら応援しよう!