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中編小説『沈黙の女王』下

・四月

沈黙は短所だ。
「いい加減にしてください!」
 ようやっとクラスメイトに馴染めてきたことによるざわめきはその言葉で瞬時に消え、教室にひんやりとした空気が流れる。かろうじて、空いた窓から入ってくる春風だけが、緊張の冷たさを和らげていた。
 球技大会運営委員兼学級委員長と聞けば、それだけで彼の生真面目さが伺えるというものだ。その日は六月に控えた球技大会の種目決めをクラスで話し合っており、彼が教卓の前に立ち、自信と慣れを纏って意気揚々とクラスを仕切っていた。その気取ったリーダーシップに不満を持つ生徒もいたにはいたが、「いい加減にしてください」との発言には、クラス全員が沈黙の拍手を贈っていた。当事者を除いて。
「私は何か難しいことを言っていますか? どの種目に参加したいかを聞いているだけです。どうしてすぐに答えないんですか」
 沈黙。アリの足音も聞こえる寸前。
「ほらこれもですよ。どうしてすっと答えてくれないんですか。こっちには時間というものもあるんです。なるべく早く決めて、次のことを進めないと」
「……ごめんなさ」
「謝罪は結構。出たい種目は何ですか?」
 時間をかけて紡ぎ出した彼女の謝罪に、学級委員長がすぐさま声を被せた。一瞬だけ熱を帯びた教室が、またも氷河期の世界に逆戻りしてしまった。小学生の頃から人々を仕切ることに優越感を抱き、いつもいつだって長としての成功を実感してきた学級委員長は、初めての事例に対して若干のパニックに陥っていた。仕方なく、学級委員長は無敵の人間に助けを求めた。
「先生、どうすれば……」
 なるべく生徒たちの話し合いに介入しないようにしていた先生だが、ため息を一つし、椅子から立ち上がった。
「そうだな。これは学級委員長が正しいよ。喋りというのは、今後の生活でかなり重要になる。直近だと、君たちは二年後に高校受験がある。面接が必要な人も出てくるだろう。仮に高校受験はなんとかなっても、その先の就職活動では絶対に面接が必要になる。いい高校に入りたいだろ? いい会社で働きたいだろ? 喋りのうまさでそれが決まる。聞かれた質問に、素早く的確に答える。それができなければ、この人は判断が遅くて、何も考えていない人なんだな、と思われる。そして、高校にも、会社にも落とされる。暗い人生が待っているぞ。まぁ、つまりな、清水。ちょっとずつ治していこう。その喋り方を矯正していこう。先生もサポートするし、学級委員長も、クラス皆もサポートしていくから、な。一緒に頑張ろう」
 その場は収まった。しかしこの発言以降、クラス全員にある意識が芽生えたことも確かだった。
「清水の喋り方は、治すべきものなんだ」

 雨が降り出した。煙が立ち込めるように。
 彼女の周りには、先生、コーチ、ヘルパーが大量発生した。
「口を大きく開くんだよ」
「お腹から声を出す」
「家に帰ったら練習しなさいよ。お風呂場でとかさ」
「人前で喋るのが恥ずかしいのか?」
 彼女の喋り方を私こそが治してあげよう、というボランティア精神がクラスメイトの心に芽生えていたのだ。先生に音読を当てられた時は、各席から励ましの声が飛んできた。
「頑張れ!」
「上手くなるよ!」
「恥ずかしがらないで!」
 先生もにんまりとした笑顔だ。
「友達に恵まれたね」
 グループワークの授業では、彼女がきまって全体発表時の発表者に選ばれた。練習させてあげよう、という名目だ。
 彼女が席を立つと、全ての座った目が一斉に彼女に集中する。彼女が喋り出すと、まず笑いが起きる。「彼女の喋り方は治すものだ」つまり「彼女の喋り方はおかしい」のだから、遠慮なく笑えるのだ。笑いが起こった後に、学級委員長の「静かに!」が響き、全員が彼女を応援する姿勢に移行する。これらがお決まりの流れになっていて、クラス全体のいい雰囲気に繋がっていた。事実、このクラスは球技大会ではぶっちぎりの一位で、団結力を評価されていた。
 彼女の専属教師が教室をうろつく中でも特に、学級委員長は至近距離で教鞭を振るっていた。彼女の喋り方を治す、という目的のための努力するその熱の入りようは、性格同様、他の生徒の追随を許さなかった。彼女が部活にも所属しておらず、習い事もしていないことを知ると、授業後毎日数十分、委員長はマンツーマンで彼女に口調矯正の補修を行った。無論巷では、学級委員長と彼女とのラブロマンスを口々に、ほぼ公に囁き合っていたが、委員長は頬を一筋たりとも赤らめることなく、「そんな関係ではない」と断言した。
放課後に、教室に二人の姿が残るのが日常となっていた。

雨の存在は忘れ、しかし春風は恋しむ、太陽の季節の入口。
些細な会話だった。
「早く期末テスト終わらんかなぁ」
「まじでそれ」
「夏休み入っちまえばこっちのもんだからな」
「でも合宿があるやん、地獄と噂の」
「あぁああ! そうだった。先輩言ってたよなぁ、去年は十五人吐いて、二人帰らされて、十人部活やめたって……」
「いやいや、十五人吐いて、二人帰らされて、五十人部活やめたんだろ!」
「おい、そしたら俺らの先輩誰もいないじゃねぇかよ」
 些細な会話だった。やや声量が大きかったことを除けば。
「てか、今回の期末テストの数学、イージーじゃね?」
「そうか?」
「だって、十六ページまでなんでしょ? 範囲」
「は、三十六ページまでな」
「…………ガチ?」
「ガチ」
「……オワッタ」
 全員爆笑、本人発狂。
「は、うそ、え! ヤバ! マジ? ガチ? マジでヤバい! うわっ、えっ、うわっ、あーー、えーーーー……マジかよ……」
「お前、言葉失いすぎw どっかの誰かさんの喋り方が感染したのかよ!」
「やめろよぉ、それは正直、赤点以上に嫌だわー」
 運悪く、教室は静かな瞬間だった。
 インフルエンザしかり、コロナしかりと。目に見えないが、物理的に害をなす「感染」に人は怯える。人々はウイルスに感染しないよう努力するが、情報に感染することには躊躇いがない。感染の恐怖が事実をねじ曲げることもあるというのに。人の喋り方が感染するとでもいうのか? しかし事実としてそれは起こった。噂が噂を呼び、無関係の事柄が、因果を帯びて膨らんでいった。彼女の近くではマスクを着用することが呼びかけられ、手の消毒が推奨され、触ること、話しかけることなど論外、断じて行ってはいけない禁止事項となった。
 ある放課後、学級委員長が彼女を呼び出した。黄昏時の空いた教室は、これまで通り、印象的な温かい光で二人を包んでいた。学級委員長はマスクを二重にしており、彼女との距離は机六個分にも及ぶ。
 くぐもった声が、しかしはっきりと教室に響いた。
「僕には政治家になるという夢があるんだ。……感染するんだろ? 君の喋り方」


・四月

「…………私に、近づかない方が、いい……」
「どうして?」
「……喋り方が……キ、き、気持ち悪い……から」
 未来は一瞬固まり、そして噴き出した。
「えっ、それだけ?」
 以降、この学校の女王は二人になった。しかし、沈黙の女王と呼ばれることはもうなく。

沈黙を、金に。










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