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長編小説『老人駅伝』③

黒鳳小学校。私と妻が、数えるのも躊躇われる程遠い昔に通っていた小学校だ。今の校長は妻の妹の同級生で、簡単に言ってしまえば無理を強いることができる人間だ。私たちは、かつてよりも何十倍もセキュリティが厳しくなった校門を新任の先生に開けてもらい、校長室へと向かった。
「ご存じかとは思いますが、この小学校には陸上部はないんですよ」
「えぇ」
「変わってないんですね」
「けれど、これも昔と変わらず、春季だけ市の陸上大会がありましてね、その時のうちの代表選手を紹介しますよ」
 校長先生には事前に妻が事情を説明していた。実業団に進み、今なお現役でバリバリに走っている、いわば市のヒーローである妻に頼まれごとをされて、年に似合わず血気盛んに意気込んでいることがありありと感じられた。
「二人とも六年生で、いい走りをするんですよ。それこそ春の大会では圧倒的な走りでしてね、四郷小の校長はびっくり仰天でしたよ、いやぁ最高でしたねあの顔は、ここ二年は四郷小の天下で本当に調子に乗っていて、今年も余裕で勝てると思っていたんでしょう。そこに我が校――」
 妻、咳払い。
「失礼、部屋の外で待っているはずです。二人とも、入っていいよ!」
 今時小学生を外で待たせながら、自分は気持ちよく長話をする校長がどこにいる、と思いながらも、私は振り返って入口を見た。せめて、大人しい子であることを願った。そこそこ走れて害がない子がいい。
 しかし、反応がない。扉が開く気配が微塵もない。
 さては、緊張して部屋に入れないんだな。私は柄にもなく想像上の小学生を可愛らしく思い、自分から優しく扉を開けた。
 扉の先には誰もいない。私が眉をひそめた瞬間、廊下の奥から先生の怒号。
「廊下を走らない!」
 その怒号に押されるように、一人の男の子が凄まじい勢いで走ってきた。
「こら、待ちなさい!」
 先生の声よりも速く走り、いかにも悪ガキといったけたたましい笑い声を上げながら、男の子は私の前を通り過ぎた。危うくぶつかるところだったので、私が「うわっ」と声を上げると、ガキは「邪魔だなぁ!」と叫びやがった。怒りよりも衝撃で、私の頭は一時的に機能停止に陥った。
「あっ、行き過ぎた」
 ガキはそう言うと、見ているだけでも膝が痛くなりそうな急ブレーキを踏んで、こちらに近づいてきた。こちらに近づいてきた!
校長先生はうなだれている。
「この子がそうです……伊藤隼斗」
 私は一瞬卒倒しかけた。校長の正気を疑った。確かに目を見張る速さではあったが、問題児であることは一目瞭然だ。チームの輪を粉砕する才能をひしひしと感じた。
しかし私は、まだ絶望に浸るのは早いと思いなおした。暴走する男子を、圧倒的なまでの厳しさとカリスマ性で制御する女の子が、もう一人の六年生に違いないと考えたのだ。
「お、女の子の方は!」
「いや、もうきてるはずなんですけどね……」
「いるよ!」
 私たちは飛び跳ねて後ろを振り返った。唯一の出入り口には私たちが立っていたはずなのに、可愛らしい黒髪の女の子が既に校長室の中にいて、棚に並ぶサッカー部のトロフィーやらバスケ部の賞状やらを素手でベッタベタと触っているではないか。乱暴に上下に振ってまでいる。
 校長の口が音を発しないことを必死で望むも、私の儚い希望は散り去った。
「……この子です」
「陣在太花です!」
 女の子は元気よく名前を言い、偶然が意図的か、トロフィーを手から落とした。凄まじい音を立てて地面に砕けるトロフィー。それを見て男の子の方が指をさして騒いだ。
「あ! いけないんだ! トロフィー壊した! 先生に言ってやろ、言ってやろ!」
 やかましいガキだ。しかもこともあろうか、女の子は反省する様子を一切見せず、屈託のない笑顔で笑い出しやがった。
 校長と私は言葉を失い、妻は能天気に笑った。
「元気がいい子たちねぇ」
 最悪が過ぎる。

 私はげんなりした気分で妻についていき、市内唯一の高校、夕陽野高校へと向かった。ここへ向かうと、未だに腹の奥辺りに小さな痛みを感じる。見慣れた校門、グランド、外周、部室。校舎は新しくなったし、変わった部分は多々あるが、それでも懐かしさが優先して湧いてきて、意味もなく鳥肌が立つ。まぁつまり、緊張感を伴う懐かしさってことだ。
 日曜日は基本的にオフなようで、陸上部の姿は見えなかった。サッカー部が悠々自適にグランドを使っていた。陸上部とサッカー部は、グランドの使用権やら、整備やら、使い方やらをめぐって争う因縁の相手だ。昔、私もランニング中にボールをぶつけられて激怒し、大乱闘に発展したこともあった。今もそうなのだろうか。
 第三顧問の短平先生が、私たちを出迎えてくれた。彼は私たちの直接の後輩にあたる。私が三年の時、彼は一年生だった。三年間を通して優秀な選手にはなれなかったが、部活を通して優秀な人間にはなった。
「ごめんね、休日なのに」
「いえいえ、先輩方の頼みは断れませんよ」
 あんな小さくて、いがぐり頭の小僧だった短平も、もう六十二だ。非の打ち所のない立派な高齢者だ。
「それで、話はついた?」
「……努力はしました」
 妻は片眉を上げた。妻の所作は昔から変わらない。若々しいというか、やや高圧的というか……まぁ、そこがいいのだけれども。黙れ。
「男子の方は、いい選手がいます。名前は村神芳樹。うちは男子の数が少なく、今年の駅伝は男子チームが出れません。なので、男子の中で一番優秀な村神君を推薦しますよ。本人もやる気です」
「いいわね! どんな子?」
「寡黙で、ひたむきな努力を続けられる選手です。真面目です。今は二年生で、五千メートルのベストは十五分十五、三千メートル障害のベストは九分四十五」
 お。
「かなりいいじゃない。その子がいいわ。それで女子は?」
 褒められて喜んでいた短平の顔が曇った。
「女子はあれなんですよ、人数がいるので、高校の方の駅伝に出場できるんです。かなりいいチームになっていて、期待が大なんですが、いかんせん、人数がいるといってもギリギリでして、選手を手放すわけには……」
「それで、誰かいるの?」
「いるといえばいるんですが、確かに走力も高かったんですが、その、あの」
「何よ」
「ただあまり練習にこないというか」
「病気?」
「いえ、病気というわけではなく、その、単にこないというか」
「怪我?」
「いえ、別に怪我というわけではなく、なんというか」
「じゃあなんなのよ! まぁいいわ、きてくれるなら、その子でいい!」
 こういう時、妻はやけに鈍感で、やけに短気だ。怪我でもなく、病気でもなく、練習にこないなんて……。
 本当はここで妻を説得するべきなのだろう。だが、早朝の軽い練習が、久々だったせいで重い疲労に変わっていて、全く頭が回らなかったし、妻と口論するのが面倒くさかった。

 山京大学。我々の母校。私が入学した時には、長距離だけで五十人以上の部員がいて、全国上位を目指す強豪チームだった。寮は完備され、マネージャーは二十名以上いて、高校から推薦でバンバン選手を取り込んでいた。
 それも今や過去の栄光。理由を上げれば長くなるが、今は割愛しよう。大事なのは、今の山京大学陸上部には、監督もおらず、長距離選手も片手で数える程しかおらず、トラックは古く汚れ、グランドには不自然なまでの静寂がひしめいているということだ。
 ここに関しては最初から優秀な選手がいるなどと期待もしていなかった私だが、それが功を奏したのか、いい意味で私の心持ちは裏切られた。
 日曜の大学に人の気配はなく、空は灰色の雲で覆われていた。暑さは感じられず、肌寒い。時間が止まったような虚しさと、人類が滅亡した後の地球のような寂しさが大学全体に帳をおろしていた。ましてや、グラウンドなど古びた遺跡そのものだった。忘れ去られていた。スポーツに力をいれていない大学のグラウンドなんて、ただ歩いているだけでも、自然と水をかき分けるような動きが連想されてしまう鉛のような空間だ。
 ただ、一か所だけ。かすんだ橙色のトラックを一人、淡々と走って回る女性。彼女の走りだけが、沈黙とわびしさから無縁のところにあった。
 とはいえ、ギャアギャアと叫びながら走っているわけではない。彼女は静かに、微かに上がった息と共に走る。それでもそこに明るさがあった。楽しさがあった。粘着性の空気を溶かす何かがあった。極寒の夜闇に光るランタンのような、ビールの缶とゴミ袋に埋め尽くされた部屋でひたむきに走る電車のおもちゃのような。 
清廉に接地する。足が地面にいるのはほんの僅かな時間で、気がつけばすぐに靴底は空を飛ぶ。その間に逆足が地面に触れ、エネルギーを受け取り、また飛ぶ。
最短距離で弧を描く腕。ぶれない体幹、一本の軸。
静かだ。とにかく静かな走りなのだ。けれども迫力がある。動きを感じる。
あぁ、上手く言えない。
綺麗な走りだ。
私は思わず、妻がまだ私の横にいるかを確認してしまった。馬鹿げているのはわかっているが、思わず。
「いい走りよね」
 妻が言った。
「うん」
「鈴木梨々香」
「……いい名前だ」
「ね」
「駅伝に参加してくれるのか?」
「して〈くれる〉のかって……えぇ、参加して〈くれる〉わよ」
 妻がいじらしげに笑ってきたので、私はむっとして顔を背けた。

 え? 一般男子のメンバーが決まってないって?
 そうだ。結構困った問題で、山京大学にはろくな男子長距離選手がいなかった(最も、梨々香さん以外にろくな陸上選手がいない)。練習はしないは、毎日酒タバコに入り浸るはで、そもそも人間として成立していない。じゃあ山京大学生の他に、一般男子で走れそうな選手に目星があるのか。ない。妻はせっかく数多の人脈を持っているのに、その使い方が非常に悪い。なんとかなるさ精神で、優秀な男子生徒の一人くらい山京大学に行けば見つかると思っている。挙句の果てには、見つからなかったのに、なんとかなるさと言っている。本当に怠慢な女だ。あぁわかっている、人脈が皆無な私が偉そうに言うことではない。
 しかし空欄で提出するわけにはいかないので、私は苦肉の策を練った。
 私は電話をかけた。
 隣の家のご主人が出た。そう、あの悪ガキ双子の親だ。筆舌に尽くし難い程に破天荒でキチガイな双子なのだから、親もとんでもない不良に違いないと、そう思っていた時期が私にもあった。ところがどっこい、意外や意外、親は模範そのもの、典型的な日本人という字面をそのまま立体化させたような普通の親だ。共働きで、毎朝二人ともスーツを着て、時間にゆとりをもって仕事に行き、時には残業して、夜に帰ってくる。あぁ、普通だ。私が悪の双子の攻撃に本気で痺れを切らして、二人を抹殺せずに済んだのは、毎回この親たちが誠意の籠った謝罪をしてくれたからだ。それはそれはもう腰が低く、頭が地面につきそうになったことも数知れず。そんなことをされちゃあ、怒る私の方が悪い気がしてくるってものだ。私も日本人だから。
 とまぁ、そんな感じて、言い方は悪いが、隣の夫婦は私に頭が上がらない。それでもって、ある時ふと、父親の方――名前は川外勇也という――が、高校、大学時代に長距離選手だったと話していたのを思い出したのだ。
 説明は十分だよな。
「無理ですよ!」
「頼む!」
「最近はもう走ってないんですよ!」
「頼む!」
「絶対に無理です、練習する時間もありません!」
「頼む!」
「無理ですって!」
「この私が、ここ二十年間であんたに頭を下げたことが一度でもあったか!」
「あっ、いやっ、それは、かっ……」
「その私が、ここで頭を下げているんだぞ!」
 酷いとかは言わないでくれたまえ。私のリベンジのためだ。
 これで全員集まった。
とはいえ、人数が集まっただけの状態では、まだ「チーム」とは呼べないよな。

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