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下書きフォルダで日の目を待つ物語たち。

今日もひとつ、物語が死んだ。

――予期せず、noteと向き合う時間がなくなったとき、そんなことを考えてしまう。

それは、興味のない飲み会だったり、降りかかってきた残業だったり、怠惰な自分のせいだったり、あとはシンプルに睡魔のせいだったりする。結局ほとんどの場合は、すべて自分のせいだ。

そして、そこで死んでいった物語たちはnoteの「下書き」にタイトルとアイキャッチ画像だけを残して、埋もれていく。

今日はそんな、死んでいった物語たちを供養してあげたい。

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星を見ない望遠鏡、そして僕がブログを書く理由

上記小見出しは、2019年10月6日に生まれて、世に出ず消えていった記事のタイトルだ。

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アイキャッチになっていたであろう写真

概要はこう。

【前半】三鷹駅のペデストリアンデッキで、「天体観測イベント」が行われていた。しかし、当日はあいにくの曇り空。行き場をなくした望遠鏡の向き先は、空ではなく、なぜか500m先の焼肉屋さんの看板に向けられていた。何の気なしに看板のある場所まで歩いてみると、30人ほどの、おそらくクラスで集まって何かしらの打ち上げのようなものを終えたばかりであろう中学生が集合写真を撮ろうとしていた。「誰かに撮ってもらおうよ」という声を聞き、「僕でよければ」との写真を撮った。
【後半】この日、ペデストリアンデッキで望遠鏡を覗いたのも、中学生の集合写真のカメラマンに名乗り出たのも、「今日は夜、ブログを書こうかな」と思っていたためだった。何か話のネタになればいいな、と思っていたから、普段はあまりしないような行動をとった。「何か書こう」が原動力になって、いつもと違う行動をとることは、結構楽しい。その行動が新しい発見につながることもある。だから僕は、ブログが好きだ。

とかこんな話だった。ちなみに、「ペデストリアンデッキ」とは、大きな駅でよく見る、こういう建物のこと。おぼえたての単語なので、最近、人と話すときには「この前ペデストリアンデッキさ〜」とか、意図的に使うようにしている。響きがかっこいいから。

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ペデストリアンデッキ(英語: pedestrian deck)は、広場と横断歩道橋の両機能を併せ持ち、建物と接続して建設された、歩行者の通行専用の高架建築物。略称はペデ、ペデデッキ。(Wikipediaより引用)

「下書きに残していて、今思い出して書けるなら、そのまま公開すればいいじゃん」というツッコミもあるかもしれない。事実、自分でもそう思う。

けれど、きっとこの日の僕にしか書けなかった細かな表現はあるだろうし、当時書いていたら出てきたほかの登場人物もいたかもしれない。そういう、「その日だからこそ書けた一節」に出会えなくなってしまうことは、とても悲しい。

たとえば、↓の話(僕が書いた話の中でも、結構好きな方)で出てくる、「齢70歳の女性」は、当初頭で考えていた構成にはいなかった人物だった。

【一部抜粋】話題が話題を呼び、52の存在は世界中で語られるように。テレビやラジオ、Webで連日連夜、その話題が絶えることはなかった。その熱の冷めないうちに、新たなプロジェクトが立ち上がることになる。「孤独な2頭のクジラを、会わせてあげたい」。声をあげたのは、映画製作者でも研究者でもない、齢70を超えた女性だった。

このおばあちゃんが出てきたのは(書き終わった後に気付いたのだけれども)、その日の朝、ラジオで「70歳になってから、ハードル上げを初めて、何かしらの大会で優勝した女性がいる」とかいう話を聞いたからだった。そして僕は、不意にこの話のキーマンになってくれたおばあちゃんのことがたまらなく好きだ。

そしてこのおばあちゃんは、勝手に僕の頭の中でしゃべりだした。仕方がないから記事にも書いた。

「私は40年前、最愛の人を亡くした。一番辛かったのは、不意な事故だったから、お別れを言えなかったことさ。2頭のクジラは、もしかすると一度会ったことがあって、お互いを探し合っているかもしれないと思ったら、なんだか寂しくってね」
「私たちはインターネットのおかげで、会いたい人にすぐ会えるようになった。手紙だって出せるし、電話もできる。『会いたい人がいるのに会えない』と嘆くものがいるなら、会わせてやりたいじゃないか。それが人間であろうが、なんだろうが。『さよなら』を言わずに別れるのは、あまりに寂しすぎることさ」

――まぁ、ペデデッキの話は、「妄想」ではなかったので急にこんな登場人物が出てくるわけではなかったとは思うけれど。

512年、生きて、生きて、生きて、生きて、生きたサメ。 #妄想ショートショート

さて、次は2019年7月1日に生まれて、世に出ず消えていった物語。上記はそのタイトルだ。

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アイキャッチになっていたであろう写真

マガジン「妄想ショートショート」にて更新しようと思っていた記事だった。

(妄想ショートショートは、日ごろ見たニュースとか、何気なく見つけたヘンなモノを起点に、いろいろと物語を想像して書く――というやつ)

これを書こうと思ったキッカケは、↓の記事だった。

512年も生きる生物っているのか……と思い、その背景を妄想したくなって、アイキャッチとタイトルだけ作って、そのまま放置されていた。

……まぁ、これに関してはいつか、ふと書いて公開することになるかも。今、書きかけの下書きを見てみて、やっぱり面白そうだと思ったし。

2020/9/15 追記:日の目を見ました。

「下書き」は宝の山か、腐った死体か

ほかにも、僕のnoteの下書きには、「タイトルとアイキャッチと書き出しだけある記事」がたくさん埋まっている。

そして経験上、その下書きの中から実際に記事になるものはほんの僅かだ。一度構成した世界観には、時間を置くと、もう入れなくなってしまう。

これが誰かの仕事でお金をもらっているのなら話は別だけれど、僕にとってnoteはただの好きなことを書く場でしかないし、何もそいつらを無理くりほじくりおこして形にしなくても、新しく考えた書きたいものを書けばいい。

noteと同じように、ツイートにも下書きがたくさんたまっている。そこには何かしら、僕が気付いた学びのようなものが書かれているし、その時何を考えて文字を入力していたかも覚えていることが多い。いわば「宝の山」だと思う。

その一方で、僕にとってnoteの下書きは、「宝(少なくとも僕にとっての)になり得たモノ」の残骸のようにも思える。

下書きを見ていると、「この時、この記事をしっかりと形にしていたなら、どういうオチがついて、どういう人物が登場していたのだろう」なんてことを考えて、少し悲しくなってしまう。

そして喜ばしいことに、今日はひとつ、この記事が生まれた。

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田中しょーご
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