本当の家族のあり方って? 自己犠牲をやめていく、これからの家族の形
香川のお寺・西蓮寺に勤めていらっしゃる 小西慶信さん からお話をいただき、仏教マガジンに「家族」をテーマに文章を寄稿しました。以下に書いた文章をそのまま公開します✨
今の家族のあり方は、明治の時代に制度化された「家制度」の影響を多分に受けています。その特徴は「家の存続のために、家族の構成員がいる」という認識のあり方であり、現代、その考え方がむしろ身にそぐわないと感じる人たちが増えてきているのではないでしょうか?
それは、言い換えると、「(自己犠牲が伴いがちな)大きな◯◯を支えるために個人があるという認識」から「個人の感覚を大事にしながら全体が成り立つという認識」への移行です。
今は過渡期で、家族のあり方が生まれる時期で、その中での葛藤も生じますが、これを契機として、「こうあるべき家族像」を離れ、「こうもありうる家族像」が増えていったらいいなと心から思っています。
(※ あくまで家族の形はさまざまであっていいですよね)
今回、いいトランジション(内面の世界の変化)の機会をいただきました。小西さん、ありがとうございました!
ちなみに、書き手の三浦祥敬はお寺出身でお寺を継がないと決め、文化に関わる方々の支援業を行っている人間です。バックグラウンドが知りたい方は、こちらの投稿を覗いてみてください。
追記(20年7月26日):コロナ禍で、この記事のビュー数がとっても増えています。仕事との距離感の変化や価値観の変化に伴い、家族の形を模索する人が増えているのではないかと感じています。みなさん、どうぞ、それぞれの環境でご家族と大切な時間を過ごされてください。
いったい本当の家族とは何なのだろうか?
私の出身は九州の佐賀県で、お寺を営む家族に生まれました。生まれた頃におじいちゃんが亡くなり、中学生まではおばあちゃんがいました。その後は父、母、兄、そして私の4人家族です。ありふれた家族だと思います。言うなれば「お寺を営んでいる」という点だけが、普通の家族とは違いました。
「拡張家族」の時代―――。
この言葉を初めて聞いた時、私はとても興味を惹かれました。私は「家を継ぐの?」とずっと言われて育ってきました。学校で自己紹介をすると継ぐの?と言われ、お寺に関係する人から継ぐの?と言われ、継ぐということをずっと問いかけられてきました。
そんなこともあり、「家って何だっけ?」「家族って何だっけ?」ということに疑問を生きてきました。とはいえ、この疑問をずっと意識していたわけではありません。むしろ「拡張家族」という言葉を聞いた時に疑問を持っていたことを思い出しました。私にとっては「拡張家族」という家族のあり方は、佐賀でいつの間にか持っていた「家族とはこうあるべき」という思い込みをほぐし、「こうあってもいいんだ」という一つの発想の種になりました。
拡張家族を筆頭に、 新しい家族のあり方が世の中ではポツポツと生まれているようです。私の知り合いにも、自らの拠点を持ちつつ、思想が合う者同士で「お互いのことを家族だとみなして」生活している人々がいます。たとえば、2017年4月に誕生した複合施設「渋谷キャスト」を拠点とする、新たな共同コミュニティ『Cift』はご存知ですか?画家やデザイナー、ヒッピー、政治家、料理人、事業家など、多様な人たちが出入りする場所です。その特徴はかならずしも血縁のない人たちが集まっていること。その共同体からは、一緒にご飯を食べたり談笑したりするのはもちろんのこと、仕事も生まれるのだそうです。
そもそも「家族」とは、どのようなものなのでしょうか。改めて考えてみると、シンプルなようで説明するのが難しいものです。
そこで、まずは「家族の起源」について考えてみたいと思います。
その昔、人類がサバンナへ進出するようになると、そこには肉食動物がいました。すごく危険な状況だったので、赤ちゃんを沢山作ることによって人類は種を残そうとしました。
200万年ほど前になると、脳が大きくなり、成長に時間がかかるようになりました。重たい赤ちゃんを一人で育てるのは難しいので、共同で育てる必要性が出てきました。このような変遷の中で、人類が「家族という連帯の形」を培ってきたのではないかと言われています。
このように、古来より私たち人類は生き抜くために協力し、人の集合体として共同体や社会を形成してきています。200万年前と比べると、生き延びるために連帯しようとする人間のあり方は、はるかに多様で複雑になりました。
時代によってその形態は移り変わっていきますが、ここで、私たちの「現在の家族のあり方」を考えるために、一番近い歴史である戦前・戦後の社会や経済の動向に目を向けてみたいと思います。
【家制度】
現代の家族の在り方に大きな影響を与えているものの一つに、「家制度」があります。
家制度とは、
「家族生活の統率者である家長が、
(1)家族そのものに属する財産を所有する権利を持ち、
(2)家業を営み、
(3)家族が世代を超えて存続し繁栄することに重きを置く生活規範の体系
のことを指しています。
明治以前から慣習的に成り立っていましたが、明治民法の制定を通して明文化されました。「家自体が存続することに重きを置かれている」ということが見逃せない点です。人のための家というよりも、家のために人がいるという認識が成り立っていたのではないでしょうか。
家制度のもとで、「一つの家に、2〜3世代の血縁関係者が住み、息子が家を継承していく」という典型的なイメージが形成されていくことになります。
戦後に家制度は廃止されましたが、その名残は人の意識と生活規範や習慣に依然として残っています。また、戦後には経済の成長がめざましく、それに関連しながら家族構成や役割分担のあり方も変化していきました。
【経済成長に伴った家族の形の変化】
また、戦後には経済の成長がめざましく、それに関連しながら家族構成や役割分担のあり方も変化していきました。
経済成長により、都市にはたくさんの大きな会社や活気のある企業が集まりました。地域から都市へと人口が流出し、核家族化や単独世帯も増加していきます。男性優位であった家制度の影響も反映されながら、多くの家庭で男性と女性の間の仕事と家事の分業はより固定的になっていきました。時代の気分を反映しながら、経済成長と密接な関係にある家族という連帯のあり方も洗練されていきました。
多くの人に支持されたこうした家族内の役割は、親が意図しようと意図しまいと子どもに伝わっていきます。生まれてくる子にとっては、まずは生まれ育った文化が全てです。「そういうもんだ」という理由なき慣習の中で育たざるを得ません。
経済一辺倒への違和感
最近私の身の回りでは、「経済一辺倒で生きていくのが本当にいいのだろうか?」と自問自答をする人が増えてきています。高価なものを所有し、収入を増やすことをわかりやすいビジョンとして掲げることができた高度経済成長期とは異なり、過渡期の現在、何を成功した状態とみなせばいいのかわからなくなってしまった人が多いのではないでしょうか。
国際連合が提唱する持続可能な開発目標「Sustainable Development Goals (SDGs)」や環境に優しい経済成長のあり方を目指す「サーキュラーエコノミー」という考え方が賛同され始めている状況を見ると、もはや経済だけが成長していくモデルは、限界が見えてきているようです。
地球環境への負担の軽減、社会格差の是正、個々人の幸福感の向上など、これまでとは違う軸が当たり前のように重視されていく流れが生まれている中で、新しい感覚で家族を培っていこうとする人たちが多くなっていくのではないかと思っています。
ここからは、そういった「新しい波」について考えていきたいと思います
個人の存在感が増す家族へ
現在、私が如実に感じているのは、「大きな○○と個」という権力構造のバランスの変化です。SNS等で影響力を持った個人のことをインフルエンサーと呼びますが、そのような人たちが成り立つようになってきたことは、個人の力が大きくなってきていることを意味しているのではないでしょうか。
国のための個、企業のための個、家族のための個というような、大きな何かを支えるための個から、「個がいて、○○がある」という関係性へのシフトです。家制度の影響を受けた家族のあり方は、家という個よりも大きな家の存続に重きが置かれていたことをすでに書きましたが、これからは家族というあり方においても相対的に個人の存在感がより増していくのではないかと考えています。
個人の価値観が家族のあり方に反映されていくようになると、新たな家族モデルがどんどん生まれます。私たちの価値観は誰一人として同じではありませんから、家族の形も違っていいのです。「こうあるべき」という家族の形は一つの幻想でしかありませんし、「本当の家族」というものは存在しません。誰かと比べる必要もなく、オリジナルな家族の形を作っていく楽しみがありますね。比べる必要もなく、それぞれが尊い形だと思います。
もちろん、拡張家族のあり方が一番良いとも、明治・大正期に増えた大家族のあり方が悪いという意味でもありません。それぞれの家族ごとにしっくりくる形を模索した結果、生まれるものであれば、もはや何でもいいのではないかと思います。
家族の在り方をチューニングする
ただ、こういった考えが現れてくると、一つの壁が生じてきます。上の世代の家族観と下の世代の家族観のずれの問題です。長年慣れ親しんできた「家族とはこうあるものだ」というイメージを下の世代に継承してもらいたいとしても、その子にとって家族のありうる姿が別に浮かんでいるとしたら…。
こういった場面では、上の世代の価値観を押し付けるのではなく、お互いの感覚を尊重し、家族のあり方をチューニングしていく必要があるのではないかと思います。未来を担っていく下の世代が持っている感覚は、新しい家族の形を作っていく創造の源です。上の世代の価値観も下の世代の価値観も、両方が大切にされる中庸を見出していくことはできないでしょうか。
犠牲になることをやめていく
私は、こうした個が育っていく時代に考えるに値するキーワードは「犠牲になることをやめていく」ことだと思います。
家族は個の集まりですが、たった一人の個のものでもありません。たとえば教育ママがいるとしましょう。その人が描く家族のあり方には、成績優秀な子どもが含まれているかもしれませんが、子どもにとっては日々の生活が負担を強いるもので、犠牲になっている感覚が強いかもしれません。その場合は、子どもの個を大事にして家族のあり方もまた問い直す必要があるのではないかと思います。かといって、子どものために親が犠牲になる必要もありません。たとえば子育てをする中で「犠牲になっている」と感じている時は、自分のことを振り返ってみるのもいいでしょう。
家族の存続を第一にするのではなく、それぞれの個が犠牲にならず、健やかな心持ちでバランスを取っていった結果として、家族の精神的なつながりがつづいていくと素敵ですよね。
私たちは健やかに暮らしていい。幸せになっていい。自分と、自分の関わりのある人が幸せを感じていける形を模索した結果、それが従来の家族の形であろうとも、新しい家族の形であろうとも、いいのだと思います。
大事にしたいのは、家族との関わりの中でついつい見えなくなりがちな「願い」です。自分自身が本心から望むことを分かち合うことができる家庭環境を協力して作っていくことです。違和感を押し殺すのではなく、より健やかな家族のあり方を見つけていくチャンスが日々の生活の中に埋まっています。変わり続ける家族とのやりとりの中で、「感じてはいけないこと」はなく、それらをあるがままに感じながら、関わりを模索していくことができると思います。
「こんなこと感じてはいけないのに」という心の声が聞こえてきたら、それは小さな我慢をしてしまっているサイン。一方で、その我慢は、より健やかな状態に至る際の自らの気持ちに気付くシグナルでもあります。みなさんは、心から何を願い、どのような関係を家族と共に編んでいきたいでしょうか?
家族の形を模索し続ける旅
ともに犠牲にならず健やかに暮らせる形を作っていく営みは、基本的に終わることはありません。家族はこういうものだという確実な何かがあるのではなく、しっくりくる形を模索し続ける、死ぬまで続く動的な探求の旅が続いていくのみです。
100年後の未来の人たちは、私たちとは違う発想で、家族という連帯の形を想像しているはずです。結婚が意味を為さないかもしれないし、血縁以外の家族がいるのが当たり前かもしれません。幾多の時代を超えて、家族のあり方は一時も留まることなく揺れ動き続けてきたのだから、また形が変わっていくだけのことです。
私たちは死ぬまでに、あと何回、桜を見て、梅雨の雨を味わい、蝉の声を聞き、落ち葉を眺め、白くなる息を見て心を動かすことができるでしょうか。あと何回、目の前の人たちと一緒に語り、ともにご飯を食べ、笑い、喧嘩し、出会い直すことができるでしょうか。家族の形はうつろい、その変化の一瞬一瞬自体を楽しみ、味わっていく。季節がうつろっていくように、家族のうつろいを大切にできる感性が、日本中で取り戻されていくことを心から祈っております。
あとがき(追記:20年7月26日)
私が投稿した Noteの投稿の中で、この投稿が一番読まれています。みなさんがどのような気持ちで読んでいるのだろう?と不思議に思いながら、その数値を日々眺めています。
コロナ禍において、仕事の仕方が変わった方も多いと思います。それに伴って、「移動できない状況の中、家でどう居心地よく暮らすのか?」 ということが試行錯誤されているのかなぁ、と思っているところです。
改めて自分でも読み直してみると、私の家族観は、仏教の思想に影響を受けていて、さらに、ここ最近は日本の自然観などに影響を受けていることに気付きました。
「うつろうということ」
季節がめぐるように、家族の形も巡っていき、一瞬も固定化されることなく、うつりかわっていく様が美しいのだと思います。だからといって、関係が続いていくことには、それなりの意識的な配慮が必要です。うつろうことは家族との関わりをほったらかしにすることではなく、変化を愛でながら、それでいて、コントロールすることなく、関係性の変化を味わっていくという営みだと思っています。
私もパートナーとの関係や、実家の家族との関係を通して、多くのことを学ばせてもらっています。
この場を借りて、感謝を伝えたいと思います。ありがとう✨
あとがき(追記:20年11月30日)
家族関係がこれまでの「あるべき?」姿から離れる中で、新しい家族の形がどんどん生まれていく流れを後押しできたらと思っています。
現在、「家族」にフォーカスしたものではありませんが、「うつろい」をテーマにした集い「月待講(つきまちこう)」を実施しています。月待講は、上弦の月と下弦の月の夜に月2回、オンラインに集い、「どういう変化の只中を生きているのか?」ということを皆さん自身が話し、聴くという内容です。
お寺に集まって、ふと感じたことを共有するような、そういう時間を編んでいけたらと思っています。
家族との関わりの中で、たくさんの内面の変化を体感することになると思います。時にはしんどくなることもあるかもしれないし、時には誰かに嬉しいことを聞いてほしいかもしれない。そういう、何を共有してもOKなホッとする場づくりに努めていきますので、いつでもいらしゃってくださいね ^_^
それでは!