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もっとカッコいい生き方をしたかった
もっとカッコいい生き方をしたかったなぁ、ということをたびたび思うのだけど、その「カッコいい」って何だっけ?ということを最近になって時々考えています。
この答えに正解なんてありゃしないので、普遍的なカッコよさについての話はできないのは当然のこととして、少しばかり自分が「手放さざるを得なかった『カッコよさ』というものさし」って何だろう?ということについて内省しつつ書いてみることに。読んでも特に学びとかはありませんのでお気をつけて😇
そもそも、この「カッコよさ」を求め続けていたのに気づいたのは最近になってから。東京から京都、奈良の方に引っ越したことと、それへの執着の緩和は同じくらいの時期に起こっていきました。
その時に象徴的に起こったのは、スタートアップ文化との関わりから身を引いたということでした。私は自分に対して「新しい、まだ価値化されていないことを見い出して、形にしていく」ということに対してポジティブな感情を抱くことが多いです。新しい何かをしている人間の方が優れているという物の見方を持っていました。スタートアップに関わるということは、新しい価値の探索がつきものです。でも、参加しているプロジェクトで、どうも居心地が悪くて、それにフォローしていくことが無理でした。その時になって初めて、諦めがついたというか、そういうスタイルのカッコよさを自分のものにしてやろうという動力を手放した気がします。いや、手放さざるを得なかったという感じかな。
特に新たな価値が模索されるスタートアップ文化だけに興味があったわけではなく、新しい価値が模索される営み自体への興味がありました。
この傾向は、京都大学に進学した後あたりから強まったものでした。京大にはユニークな人がたくさんいて、自分なりに何か探求していってる姿が印象的で、そういうものがある人がとっても羨ましかったのを覚えてます。でもそういうものが自分にないと思うことばかりでした。大学4年生くらいになってピンときたのがワークショップ設計の分野で、本を買って、実際にやってみることから始めました。教えてくれる人はいなかったので、独学です。「学び」をキーワードに動いていました。でも、学びの場をつくるというよりも、「表現をすることで人が変わっていく」ということをよく思うようになって、教育や人材育成というテーマに流れがちな学びの世界に違和感を持ち、離脱しました。その後、大学卒業間際あたりから「アート」に興味を持ち始めます。なんだかアートが「カッコよかった」。そう、その時、スタートアップ文化にも共通する、価値化されていないものを現実に価値化している人たちにカッコよさを感じていました。
ただ、このあたりから自分の「新しさのものさし」に無自覚なまま、自分を裁き続けて躁鬱傾向が高まったり、他の人を常にその目線でジャッジしてしまって、うまく人と仲良くなれないということが多発していくことになりました。クリエイティブな活動をしている人に認められないと、「見下されてる」と解釈してしまうくらいに、そのものさしが強くなってしまったのかなと思います。
ちなみにアートの世界との関わりを持っていた時、いくらもらえるか?とか、契約のあり方がどうとか、そういうことはどうでもいいと思ってた。面白いことをできるかどうかが重要でした。そうでなければお金をたくさんもらってもしょうがないし、お金のために働くという感覚がそんなにないのかもしれない。そんなこんなでお金を扱うということに対する能力はあんまり高くないので、たびたびお金が底をついて、死にそうになるということが起こってきた。あと数百円しかないという状態になったのはここ5年くらいで何回も何回もあります。自分が面白いと思うことをするためにお金が巡ることが必要なら、やる、という感じ。
あぁ、ここまで書いてきて、自分は「新しいものを作り続けているカッコよさ」というよりも、もしかすると「驚きや面白さ」の感情を求めているのかもしれない。その時の手段として、アートの領域やスタートアップの領域に意識を向けてきたのかも。
それらの領域でうまく立ち振る舞うことができなくて、挫折。もっとカッコいい生き方をしたかった、というのは、それらの領域に見い出していた
うまく立ち振る舞おうとしている中で知らず知らずのうちに身につけていたのが、カタカナの言葉たちです。口からカタカナがよく出てくるんですよね。少し前だとイノベーションやら、最近だと、ウェルビーイングやら、リジェネレーションやら、そういう外来の言葉をいち早く解釈して、世に最新のものとして出していくという傾向が強まりました。最新のことを知ってる、やってると言いたかったんだと思う。
だけど、なんだか常に周りとの比較をしながら情報を追い続けているような感じがして、自分が実直に感じることとのギャップがあり続けたように思います。
つまり「新しさというものさし」を常に握りしめてきたこと。そして他の人から見た時の新しさの獲得にあくせくしてきた。競争社会得意じゃないのに、自分を競争する方に乗せ続けてきたのだと思います。ここ数年の疲弊は、競争し続けようとする頭に、身体が拒否を示し始めたんだなと思うんです。
そういう他者との比較の中で新しいものを模索していく文化圏から少し身を離してみてから、すこし息がしやすくなってきた。それでギュルギュルと回り続けていた思考回路を眺めながら、虫の声を聞き、詩を書き、心の動きや身体の感覚を大切にするようになった。そうすると、だんだんと競争社会に対して、思考を巡らすことで戦おうとしてたんだなと気づいた。思考での戦いでは、概念や意味をいかに獲得し、新しい脱構築を行うか合戦をやっていたと思う。
身体の感覚を大事にし始めてから、ポコッと出てきたのが空揚げなんだよね。笑
以前よく関わっていた文化圏の人たちに空揚げのことを話すと必ずしも反応は良くなくて、「意味ないことしてるのね」と言われたこともあります。
でも個人的には、空揚げし始めてからの方が個人としてのウェルビーイングさが格段に満ちているし、新しいものを作らないと!と思っている時よりも、結果的に自分にとっての新しいことに身を投じやすくなってきていると感じています。おそらくは他の人と競争するということから降りた、つまり、前ほど他者からどう見られるかということに執着しなくなったんだと思う。
ようやく自分を始めたのかも。あぁ、だから「道」という言葉を使い始めたのか。「からあげ道」という刺繍が入った作務衣を持ってるんだけど、そこに道をつけてもらった理由が今になってわかってきた。ネタでつけたんだけどね。でも道を歩くっていうことはそういうことだね。他の人との競争ではなく、己と向き合い続けることが大事。
結局書いてきて分かったのは、「新しさ」のものさしは大事にしているけれど、自分にとっての新しさが見つかっていくことに喜びを見出してるということで、他者との競争感のある新しさを求めることへの執着が緩和されました。競争するためには、他者とものさしをすり合わせないといけません。つまり、流布している何がしかをキャッチアップして適応するという適応の原理で動いてたらしい。
全国の巡礼をやってみることも、衣を縫いながら作品制作することも、空揚げで実験していくことも、自分の価値のものさしを大事にしながら、さらにはそれに執着しすぎず価値という捉え方からも解脱(笑)していく創造のあり方を模索する。
自分が好奇心を持って旅をし続けてる状態に居続けたいのよね。己の旅をしていく。もしそれが他の人から見た時にも、何か価値に見えるのであればそれはそれでよし。順番が外からではなく、内から溢れてくることを大事にする。
自分の新しさや面白いという感情に正直になる方法を未だに模索してるのだ。
取り止めもなく、
おわり。
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