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エモさが許容される場を編む(12月8日の月待講 1回目)

こんにちは。

トランジションの新しい取組み・月待講をはじめました。12月8日に初回の会を行ったのですが、結果的にやってよかったです。そして、それほど想定していなかったのですが、結果的にとっても「エモい」場になりました。

このような感想をいただきました✨

全体での共話パートで話されたことは、こちらの Note 記事の方にも書き出しました。

月というメタファーと情緒の許容

そもそも、案内人の三浦自身が、「言葉にならないような身体感覚」を大事にしたいという気持ちが強いのですが、それだけでなく、「月」を企画に絡めていることが月待講で起こるコミュニケーションにも影響しているのだと実感しました。

月夜。

それを想像すると、なんだかいろんな感情が生じてきます。

ほのかに明るく空に拡がる光をやさしく、受け取る
時に、妖艶に。時に、ふんわりと。時に、美しく。

月待講では「月」の話題が話に度々登りました。

そこで出てくるエピソードがエモいこと、エモいこと...。

すきな人と月を見るのっていいですよね

とか、

月を4時間、5時間。眺めてみたい。他の人たちと。話してもいいし、話さなくてもいい。

とか。

それらの話を聞きながら、自分の身体がじんわり温かくなり、面白さとも楽しさともなんとも言えない感覚が拡がりました。その感覚をなんと呼んでいいのかわからないのですが、仮に「情緒」という言葉を置いておこうと思います。

情緒的な感覚の生起と情緒的感覚を大事にする関係性

言葉にできない感じ。それをそのまま感じ、味わいたい。普段の生活の中で、それをどうしようもなくできない時もあります。ただ、月待講をやることで、情緒的な感覚を大事にすることを何度も思い出したいと思います。

ことばは、思考の中だけじゃなくて、「こころ」や「からだ」からも生まれる。そう思うんです。

私自身はこれまで数年間、いわゆる「知的生産」が重要視される人たちとの関わりの中で働いてきたので、アイデアを出すこと、考えることが仕事をする上で超重要でした。その一方で情緒的な感覚がうまく働かなくなってしまったのかもしれません。

詩作や自然との関わり方を変えることを通じ、「情緒の起こり」が戻ってきているように思います。

情感。情緒。

そういうものは、効率性や合理性の背後で抑圧されがちで、それが続くとペンペン草が生えないように、何も感じないという状態すら起こってしまう。

そして、この情緒的感性とでも仮に呼ぶこの感覚の再生は、社会の中においても重要なものだと思っています。その一つの受け皿として月待講をやります。

私は活動を通して、自分の、そして、関わりある友達・知り合い・これからお会いしていく方々の情を取り戻すことをやりたいのだなぁと今回の実施で再認識しました✨

自分も活動させてもらいながら、どんどん情がノッたいのちが喜ぶ流れが起こりやすくなってきているので、身の回りに、エモさ溢れる関係性を増やしていきたいものです✨

エモさの蘇生。情緒の生起。

楽しみです✨


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