マルセル・デュシャンと私 | 私は、何を残せるだろうか。
マルセル・デュシャン -- 私が人生で最も影響を受けた人物のひとりである。
私は、彼との出会いによって自分の人生とどのように向き合い、どのように生きていくかを真剣に考えるようになった。
なぜ、これほどまでに後世に何かを残そうとしているのか。なぜ、数ある人生の選択肢の中で起業家という生き方を選んだのか。なぜ、幾多の事業領域の中から日本文化を選んだのか。
今日は、私の思想の源泉を伝えるために、文章に残すことにしようと思う。
マルセル・デュシャンとは
マルセル・デュシャンとは、20世紀の美術史に決定的な影響を残したフランス出身の美術家である。
彼が、現代においてこれほど評価されている背景には、彼がアートのあり方や評価軸を一新したことが挙げられる。
それまで、西洋の美術シーンにおいて絵画を目で見て「何が美しいか」を評価することがアートだと考えられていた。
しかし、彼は作品を見た鑑賞者が思考を巡らし、そこで初めて作品が完成する「作品と鑑賞者の対話」こそがアートだと考えた。
そこで、彼は「観念の芸術」という作品に込められた発想や観念を重視した芸術のあり方を提唱し、美術史における新たな潮流をつくったのである。
この考え方は、現代アートの先駆けとなり、彼は「現代アートの父」と呼ばれている。
デュシャンとの出会い
私は、小学生の頃から地元のアートスクールに通っていて創作が好きな少年ではあった。
しかし、中学生になるとサッカーに明け暮れ、アートとは無縁の生活を送るようになる。
そのまま高校生になるのだが、これが私がデュシャンとで会うきっかけとなる。
私の進んだ高校は、かなり学業に力を入れている学校で、そこに通う学生も毎日のように、学校終わりで予備校に通うような生活をしていた。
私はというものの、当時HIPHOPが若者のなかで少しずつ流行るようになり、ほぼ全ての時間をHIPHOPを聴くことに費やしていた。(音楽に明るい人なら伝わるかもしれないが、ひたすらサンプリング元をディグっていた。)
しかし、高校にはHIPHOPを聴いている人はほぼおらず、あまり勉強もしていなかった自分は同級生との共通の話題がほぼなく孤独感を抱くようになった。(これは私の個人的な精神状態の話で、同級生はナイスガイが多かった。)
また、それと並行するように幼少期から患っている皮膚病の調子がかなり悪くなっていた。ずっと好きだったサッカーも中々できない状態で、人生に対する絶望感を抱いていたのを今でもたまにフラッシュバックする。
それらが原因で、私は高校を休みがちになる。
みんなが学校に通っている間、特に何もすることがないため、私は幼少期から関心を持っていたアートに触れるために地元の豊田市美術館に足繁く通うようになる。(豊田市美術館は、高校生以下は無料で入館できるので毎日のように通っていた。)
そこで多くの現代アートを鑑賞するにつれて、私は現代アートについて色々調べるようになった。
それによって、私はデュシャンと出会うことになる。
彼から受けた影響
彼から受けた大きな影響として、後世に残るものづくりへの強い執着がある。ここに、ひとつ彼の残した言葉を添えたいと思う。
彼と出会ったタイミングで、私の皮膚病はひどく悪い状態にあった。今思えば、病状に対する人生への絶望感と、そのコンプレックスが私にここまでの執着心を持たせたのだと思う。
死に近づくと生物は、何かを残す動機に駆られるのだろうか。
そして、私は後世に残るものをつくるべく、起業家として生きていくことを決めた。
なぜ起業なのかと問われると、ひとつには成し遂げた時に生まれるインパクトが大きさがあるだろう。また、上三代が経営者であったことも影響しているかもしれない。
私たちの日本文化ブランドが世界中の人々に愛されることによって、それは日本の国際的な存在感を高めることにつながるかもしれない。企業として、後世に伝えたいコンセプトを残せるかもしれない。
とにかく、死んでも残るものがつくりたい。
死んでも残るものをつくろう。
昨年、何度か海外を訪れた際に現地での日本の人気を肌で感じた。
コロナ禍に、NetflixやAmazonプライムで日本のコンテンツが大量に消費されたことで海外からの日本への興味が飛躍的に向上している。
この現状を知った時に、私が日本人起業家として後世に残すべきものは、日本文化なのではないかと強く思った。
日本は今後、急速に人口が減少していき世界での経済的な存在感は小さくなっていくかもしれない。しかし、私は日本が文化大国として存在感を持つ未来を信じている。
私は、何を残せるだろうか。
最後に、もうひとつ彼の残した言葉を添えてこの文章を締めたいと思う。
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