雨が好きだ。
人野です。
みなさん、雨は好きですか?
僕は好きです。
でも、雨はそこまで良いイメージを持たれていないですよね。
服が濡れる、路面は滑る、視界不良、寒さ、不自由さ。
悪い印象が先に飛び出してきます。
また、物語で暗い展開になると雨が降り出したり、
これからの先行きを不安にさせるための演出として雨が使われたりします。
つまり、
こういうことなんですよね。雨を、まるで空からの涙かのような扱いをする。確かに雨にはそういった面もあります。
でも、雨をのけ者にはしたくない。
雨は楽しいところがいっぱいなんだ!!
散歩に出かけよう。
こういうとき、普段は靴箱の奥に眠っている長靴が僕を支えてくれる。
足の濡れが気にならなければ、土くれや水たまりを避ける必要もない。
いつもの散歩道に来た。アスファルトで整備された道は潤としていて、歩くたび靴が水滴を拾う。
自然が暴発したかのような景色が柵の外に広がっているので、植物に雨がぶつかり、しとしと、という音を立てた。ほどよい寒さと優しい音が体を包み、リズムよく歩を進める。
しとしと、という擬態語を考えた人はすごい。ふとそんなことを思った。
友人にも雨が好きだという男がいる。彼は特段、家にいるときの雨音が好きで、こたつに入りつつ本を読むのが至福と言った。
わかる。
ただ、家の外に出るのもまた乙だ。傘に雫がぽつぽつと踊り、ぐんぐんと進めば景色の変貌を眺められる。これはこれで、体験としての雨を感じ取ることができる。
雨音を嗜みつつも、音楽を聴いた。こういうときはlofiが特に僕を楽しませてくれる。周囲を見回しながら小躍りするように歩く。
2月だが、桜色の樹をみつけた。ツタが絡まり、雨だれを楽しむにもってこいだと思った。近づこうか。
だめだ、枯れたアメリカセンダングサに妨げられて、そうもいかなかった。
近づこうとすれば、植物に邪魔をされる。そういうダンジョンなのかもしれない。
橋だ。
橋を見てもテンションが上がらなくなったのはいつ頃からだろうか。
雨の川に近づけば「危ない」。橋で遊べば「落ちたら危険だ」。
そんな危機意識と大人たちの憂慮が、僕たちの好奇心を橋から遠ざけたのかもしれない。
「橋の下のジャングル」なんて、心躍る世界も「危険地帯」の烙印を押されてしまったな。
しばし歩いていれば、いやに整えられた道へ出た。見れば「サイクリングロード」だそうだ。雨が両脇に溜まり、特別感を演出している。
水たまりを踏み抜いて、ズボンの裾を濡らした。これも醍醐味だ。
雨が降っている特別感は、なにか人に違うことをさせる。
右矢印の忠告を無視するとどうなるのだろうか。
そんな興味心を実行するには、もってこいな日なんだ。
え?
マウンテンバイクのレース場?
斜度すごっ。どうりで右矢印があるわけだ。
降りますけど。
怖。踏み抜かなくてよかった~。
遊びたくなってきた
やはり雨は楽しい気持ちでいるのが大事。見つけたものはなんでもやっていこう。
おや? 局所的に雨が……
見上げてみると、太めのパイプから絶えず水が降り注いでいた。
おそらく道路に水を溜めないための、排水機構だろう。
さて、手には傘。強い雨。
ダダダダダダダダダダダダダダダダ
楽しっ。
しばし歩くと、「いつも焚火してるホームレスが実は物語の重要キャラで、主人公に大事な話をする」シーンが彷彿される場所を見つけた。
多分石のブロックに腰かけてる。
近づいてみたい。
ダメだ。枯れたアメリカセンダングサが妨げている。
公園に来た。
夏だったら樹の葉が雨を遮って、雨音を楽しみながら傘を下ろし小休止、なんてことができるが、今は2月。傘を下ろそうものならびしょ濡れになって身を冷ます。
なんとも寂しい光景だ。
注意書きの字がカスカスなのはよくあることだ。だがこれはスカスカだった。
他の字がこんなに明瞭に残っているのに。穴埋めみたいだ。
危険なのは重々承知で川を見てみることにした。氾濫もしていなければ、勢いとしては弱めだ。
こんな川でも、親は「危ない」と言うのだろう。人の親というのは、いつだって危険を連想させるものに警戒心を解かない。
公園らしく、遊具も観覧してみることにした。懐かしさと共に、ブランコの下の水たまりへダイブしてしまった苦い記憶も蘇る。スリリングを与えるスパイスでありながら、泥んこになる怖さもはらんでいる。
恐ろしい経験になるだろう。
すげー滑りそう。でも意外と滑らないんだろな。
‟これ”が2つだけあった。なんで?
そろそろ帰ろうか。手、かじかんできたし。
それではさようなら。
みなさんも雨、楽しんでみましょう。
以上です。ありがとうございました。