ニュースとセレンディピティ(あるいは、気の長い学び)
なぜ私は、ニュースを読み、聴き、視るのか?
もちろん、世の中の重大な動きを知りたい。
それは間違いない、けれど。
目の前にあるニュースと、今ここにいる私。
たしかに、直接的な学びも、そこにはある。
でも、ただそれだけが目的なら。
毎回毎回、となりの記事の見出しまで、こんなにむさぼるようには読まない、はずだ。
それは、むしろ国語辞典を自由に引くようなものだ。国語辞典に限らず、辞書を「読むように」引くあの感覚と、ニュースを読み、聴き、視る瞬間は、とてもよく似ている。
時間も、空間も飛び越えるセレンディピティ
きっと今日も、リアル書店に漕ぎ出して、さして関心があるともわからないコーナーの背表紙たちを、舐めるように読んだりしているだろう。不合理だけど、でもそうするのだ。たぶんそこには、私がまだ知らない意味がある。
そのタイトルが、ニュースの見出したちが、あるいはつい寄り道した記事が、未来の私に何をもたらすか、もたらさないのか? 実は、なにも知らない。知りようもないのかもしれないけど。でも、だから、ニュースを読む、聴く、視る。
いつか、どこかの私に、思わぬ嵐を届ける。
そんな蝶の羽ばたきになるように。