ある「社会的淋しさ」の研究
実践1(=WSD34期実践1対面ワークショップ)で、私たちは「社会的淋しさ」をテーマにしたワークショップに取組むことにしました。社会的な情勢を鑑みたところは大いにあります。
その時、我らが「長官」から、
「そもそも、どうして淋しくてはいけないのか?」
という、とても重要な示唆がありました。
「研究員」だった私しょーじぃは、その言葉に物凄い引っ掛かりを覚えて、さっそく研究室へ。
私は、この時ほど、若い時分の読書の底力を感じたことは…、いやすみません言い過ぎました。それは嘘です。でも、さほど時間かからず、脳裏に引っかかるフレーズが浮かんできたことは事実です。
夏目漱石の、まるで予言のような述懐
私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに 、淋しい今の私を我慢したいのです 。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は 、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう
夏目漱石 「こころ」
読み返してビビりました。私たちに今まさに起きていることが言葉になっているような感覚です。何度か読んだことのある小説ですが、以前はそんな風に思わなかったのです。
私は淋しい人間ですが、ことによると貴方も淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打つかりたいのでしょう。……
夏目漱石 「こころ」
えええ! 何だって! 先生!!
よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で
夏目漱石 「こころ」
「不自然な暴力」…これは、作中の核心部分に迫る表現でもあります。ああ、そうなのか、人間ってそうなのかもしれないと、色々な思いが一瞬で巡り、思わず天を仰いでしまいました。
もしかして、明治時代には他にも、「淋しさ」への驚くべき言及が、まだあるのかもしれないと直感して(とはいえ、WSD実践の期日感はかなりハードですから、実際にはそれほどゴリゴリあたることはできず、サラッと調べたにすぎませんが)、ちょっと探ってみたのです。すると…。
志賀直哉、いわゆる「課題図書」以来の再会で衝撃
人を喜ばすことは悪いことではない。自分は当然、或喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう。この淋しい、いやな気持は。何故だろう。何から来るのだろう。
志賀直哉 「小僧の神様」
ほ、ほほう…。「小僧の神様」とな。ノーマークでしたが…。
学生の時分、教材としての扱われ方が個人的にアレだったからかも。
しかし、こと「淋しさ」の真骨頂は「城の崎にて」の方です。
鼠が殺されまいと、死ぬに極った運命を担いながら、全力を尽して逃げ廻っている様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持になった。あれが本統なのだと思った。自分が希っている静かさの前に、ああいう苦しみのあることは恐ろしいことだ。
志賀直哉 「城の崎にて」
可哀想に想うと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた。自分は偶然に死ななかった。蠑螈は偶然に死んだ。
志賀直哉 「城の崎にて」
然し実際喜びの感じは湧き上がってはこなかった。生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。
志賀直哉 「城の崎にて」
なんということだ。思わずうーんと唸ってしまいました。
太宰治や宮沢賢治も気になる言葉を残している
わが友の
笑って隠す淋しさに
われも笑って返す淋しさ
太宰治 「正義と微笑」
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとはとうめいな軌道をすすむ
宮沢賢治 「春と修羅」
「自由と孤独」「生と死」
私は、歴史専攻でも文学専攻でもありませんでしたし、明治時代の文豪たちが、どのような景色を見ていて、だからこういうことを残したのだろうというような、深い考察はとてもできません。ただ、書かれている言葉の下に横たわるものを、私なりに感じ取ることはできます。
そこにあるのは「自由と孤独」「生と死」を意識し、させられ、何か否応なしに向き合う文豪たちの姿。それらを見つめて、私の中に「そもそも、どうして淋しくてはいけないのか?」に対する、決して絶対的ではないけれども大切な、一つの答えが育ってきました。
とことん追求して世界観を築きたい、その理由
私は「研究員」として、これらの調査結果をA42枚ほどのレポートにまとめ、「長官」や他の実践チームの皆さまに報告しました。このレポート自体は、あくまでも世界観を己に腹落ちさせるためだけに作成したので、最後までワークショップの表舞台には出ていません。ただ、当日私が持っていたファイルの中には、実はこのレポートを入れ込んでいました。私なりの、誰にも見せない世界観づくりでした。
私は人間としてもかなり不器用な部類なので、ここまでとことん世界観を構築しないと、自分にまとわりつく「囚われ」のようなものをうまく切り離すことができません。そのためか、どちらかというと世界観とか、メタファーを盛り込んでコンセプトメイキングやプログラムデザインをする傾向が強いタイプなのだと思います。
もちろん、今後はいろいろ幅が広がるに越したことはないのでしょうけど、ある程度は尖ったまま行く部分は残るのかな。
機会があったら読んでみたい本がたくさんあります。前述の「正義と微笑」も、全編ちゃんと読んだわけではないですし…。