
レンズの羽根が開く
歌集評『羽と風鈴』 嶋稟太郎
小路口忍
本のカバーを外して広げてみる。格子状の窓枠が左上から右下へ角度をつけ、その奥に枝葉の疎らな木が透けて見える。それとは別に左下から右上へと角度をつけた窓枠も多重露光のように重ねられ、パースペクティブは裏表紙の折返しまで続いていく。青色を基調としながらも、光源を感じられる左側は若草色で始まり右へ行くにつれ階調を変化させていく。書店でこの歌集を手にし、ページを捲りながら何首か読んだ後棚に戻した。いくつかの本を手にしては戻すということを繰り返し、最後にまたこの本を手にしたのは、カバーの青いイメージが、書かれているであろう短歌のイメージを私に伝えてくれたからだ。
色のイメージを思い浮かべるのなら、羽は白。風鈴は青みのかかった透明。しかし、羽は鳥として飛び立ち、風鈴が揺れる向こうには青い空がある。部屋の窓越しに鳥の動きを捉え、揺れる風鈴と青い空を交互にピントを合わせていく、そんな視点を思い描いた。
『羽と風鈴』を通読してまず感じたことは描写に徹している点であったが、それは作者のフィルターを通した「写生」ではなく、むしろ、ありのままを歌うために「カメラ」のような装置を媒介とした「撮影」という行為に近いと感じた。
踏切のへこみを越える自転車は一度沈んでそうして弾む
杉の葉を雨の滴が打つようにエンターキーは浅く沈んで
一首目はタイヤを小型カメラの視点でへこみを通過する瞬間を、同時に別のカメラでは自転車のガタンという音共に線路の向こうへ弾みながら去って行く大きな流れを捉える。二首目、針葉樹の葉から放たれる滴の落ちる映像は、キーを打つ指へと移行する。エンターキーとは叩かれるものというイメージを超え、沈みゆく動きを捉える。主体そのものがカメラとなり、時に空間を飛躍しながらも淡々と「撮影」を続ける研ぎ澄まされた描写は、カメラのRAWデーターのようにありのままの情報量を抱え、艶めかしくも詩情の滲みが伝わってくる。
蕗の葉がテニスコートの北側のフェンスの下に押し寄せている
少しずつ網戸の網の目を進むてんとうむしをしばし見ていた
カメラは動画から静止画へと、より時間をフォーカスしていく。一首目、二首目ともにある日のある場面を切り取り、しかしその情景は目の前で写真を見ているかのような言葉が並んでゆく。フレームには蕗の葉の集まりを中心としながら、その背景をフェンス、北側、テニスコートという連なりを提示されることで、天気の感じ、部活をする声など、光の感じや音も脳内で再生される。それはクライマックスを必要としない、世界の断片を緻密に提示するアレック・ソスの写真のように。二首目、てんとう虫の動きが中心とも読めるが、まずは全体をぼんやりと見つつ、次第に網戸の「網の目」へとピントを合わせる。そしてまた焦点を戻せば網の向こうの景色を認識していく。夏の日のなんでも無い一瞬に、焦点をずらしながら何かを思考していく時間の流れを感じさせる。
このように描写に架空のカメラを挟み込むことで、言葉の連なりに鮮明な陰影と深みを与える。カバーに重ねられた窓枠のイメージのように、複数の視点によって平凡な言葉にふくらみのような立体感を与える。と、同時にそのイメージをきっかけに、言葉の連なりを受け取った読者は主体の意識を取り囲む世界の断片を垣間見る。
しばらくは地上を走る電車から桜並木のある街を見た
夕ぐれをさえぎるために紐をひく昼のキャベツを消化しながら
一首目、歌集冒頭の歌。地下鉄が地形によって不意に地上へ出て再度トンネルに入る、その「しばらく」を描写する。単調なトンネルの暗闇から突然「桜並木のある街」が現れると、一気にドラマチックな心情に振られるはずだ。しかしそれは「しばらく」なのであり、結局はまた元の暗闇に戻ることを受け入れる様が静かな諦念として感じる。車内にはさくらを見てパッと表情が明るくなる子供や、反対に携帯から顔を上げること無くまた暗闇へと戻っていく乗客がいたとしても、主体はただ車窓を見つめ、桜並木のある「街」全体をぼんやりと眺めているのだろう。
二首目は夜になっても目の前の仕事はまだまだ続きそうな状況なのか、環境を切り替えるためにブラインドを閉める。ややしんどい気持ちもあるがもうひと踏ん張り、という状況か。
気力も体力もある年代できっと健康なのだろう。一方で下の句には不思議な描写が入る。昼のキャベツを消化している実感など、人は普通意識しない。ただ現実としては生きていくために内蔵は動いている。生活の実働は、担保された生命力が確実に消化されてゆく体内活動との関係性ゆえであることに気づく。しかし上の句に戻れば、夕暮れに閉められたブラインドが永遠には続かぬ若さや、いつしか訪れる老いを想起させる。無意識を切り取った一首である。
ファインダー越しに光とともに切り取られた情景は、徐々に主体の心の奥底や時間を超えた視点、無意識の存在を感じる形になっていく。一方で嶋の持つカメラはライカやハッセルのような高尚なものではない。スナップとして切り取られる歌にページを捲る指を止まらせる瞬間がある。
助手席と対角線に話し合う母と娘が時にうなずく
地方転勤のない仕事だと麦畑の風のあいまに義父に伝えつ
透とおる小さな筒に挿されおりテーブル二つ分の伝票
『異郷』と題された、妻の故郷へ滞在した際の連作だろうか。家族と過ごした時間を切り取った歌はここでも描写に徹している。しかし、妻の家族に対しては無理にアングルを意識することや、どこかをフォーカスすることなく、強く「そのまま」に徹する。地方転勤の無いことや伝票の情景など滲み出す点もあるが、情景はただ切り取られ、アルバムの中に収められていく。いつの日かページをめくったときにこそ何かが現れる期待とともに。深く読みながらもこの味わい深さに結実する点が本歌集の本懐であろう。
嶋にとっての短歌という手段をカメラという装置に置き換えてみたが、そのカメラのイメージは手垢の染みたフィルムカメラだ。単調な仕組みであっても、現像液に浸し浮かび上がる像を見つめた時、嶋の短歌は時を思い、時を重ね、ぼんやりと現れる。歌集のカバーのように。