この数日間のこと
9月23日〜30日(今日、木曜日)までのことを記録しておく。私は都内の病院に入院していた。
これまでの日記にも記録してあるはずだが、右足の痛みがひどかったせいである。
もともと私の病気についてはさまざまな治療を試みた挙句、医者は、さらに入院して治療するより、放置した方がマシであるという結論に達していた。
こちらとしても、病院にかかることにはウンザリしていたので、なるべくなら行きたくなかったのだが、足の痛みがどうしても耐えがたく、仕方なく前の病院を再び受診したのである。
病院にかかるというのはとかく面倒なもので、大抵、入り口に辿り着くまでに疲れ果ててしまうていのものだが、このコロナ禍とやらのせいで、より一層手数がかかるようになっている。何度も入院したことのある病院は、うちから遠いという難点はあるものの、新しく病院を探して経緯の説明をする手間を考えると、ほかに選択肢はない。すぐに再入院させてくれたのは、非常にありがたいことではあった。
とはいえ入院中にはいろいろと制約や苦労があり、不満を書き出せば、いくらでも書けてしまいそうだが、省略しよう。
重病患者の入る病院という場所には独特のリアリティがあり、この社会では「命の価値」など実は全く保障されていないという厳密な事実を知らされる。そうなると、世間の言説は欺瞞や空論に見えてきてしまうのだが、当然、そちらにもそちらなりの「リアリティ」がある。本来はどちらが「真実」というものでもないはずである。むしろ、この二つのリアリティに架橋する言葉を作り出すことが病人のなすべきことだろう。
まあそれはそれとして、私にとっては良くも悪くも自分の「限界」をはっきり見据えることになった数日間だった。
その間、私が読んでいたのは次の5冊。
『ホメロス イリアス(上)』
『(下)』
『ホメロス オデュッセイア(上)』
『(下)』(いずれも松平千秋訳、岩波文庫)
『アリストテレース詩学・ホラーティウス詩論』(松本仁助・岡道男訳、岩波文庫)
体力的にも「限界」にあって、ほとんど寝ていたつもりだったが、これだけ本が読めているのだから、実はずいぶん余裕があったのかもしれない。
『イリアス』には、戦闘描写の単調さの中から屹立する「アキレウスの怒り」に震撼させられた。英雄アキレウスの怒りは、まったく英雄ではあり得ない読者にも生きる活力と指針を与えてくれる。
神の存在と人間の意志について、深く考えさせられ感銘も受けた『イリアス』に比べると、私は、『オデュッセイア』の方は単に「奇談」として楽しんだという感が強い。昔の人は、こんな不思議な考え方をしていたのか、という驚きが大きかった。
ただ『オデュッセイア』は、やはりオデュッセウスが帰還して、自分の冒険を「語り出す」場面が良い。ここには、オデュッセウスの過去と未来の織り込まれた「現在」という時間が、とても美しく描き出されている。
アリストテレス『詩学』は、読まれるものとしての悲劇の「筋」に芸術の本性を見る芸術論。「筋」=必然性と解せる本書も、私は、アリストテレス流の「リアリズム」論として読んだ。訳註で指摘されているように、ここでいう必然性からは「神」が排除されている。
ホラティウス『詩論』の方が、むしろ読み物としては面白い。先日読んだロンサールに影響を与えた詩人としてのホラティウスに興味を持っている。ホラティウス自身は抒情詩人ではないのだが、その「弁論術」によって詩人たちに影響力を持ったのである。
一点、訳者解説で、ホラティウス『詩論』が流布したことによりアリストテレス『詩学』が誤読される傾向を招いたと言われているのだが、これが具体的にどのような事態を指しているのか気になった。
さて、入院中は日記を書く気にはならなかったわけだが、家にいるこれからは続けようと思っている。
常時、痛み止めを点滴することになり、記憶力の衰えは甚だしくなっている。
プラトンではないが、ものを考えることが「真理」を「想起」することだとしたら、記憶力の衰えは、思考する能力全体に関わる。
意識を保つために、自らの文体(スタイル)を創出し、維持する必要を切実に感じている。
もっぱら読書の記録になるだろうが、お付き合いいただけたら幸いです。
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