萌えは愛の上位概念(©︎東浩紀)とはなにか-あるいは確定記述と固有名と愛の関係②
萌えは愛の上位概念(©︎東浩紀)とはなにか-あるいは確定記述と固有名と愛の関係①|小林勝平|note
最強の東浩紀読者の宇野常寛による東浩紀読解を読む
さて、本題に入ろう。
といったところで、①にも書いたが、構成も何も考えてはいないし、基本的に引用以外は、iPhoneのフリック入力と記憶力で書く文章だから、何から始めればいいのかすら考えていない。
ただ、私の頭の中では、全て出来上がっているので、私の内なる東浩紀の声に耳を傾けながら書いていこう。
まずは、やはり萌えについて考えてみることにする。とはいえ、実はこれがかなりやっかいである。というより、ここがうまく説明ができれば半分ぐらいはクリアしたとも言える。私の友人にはこの話を何度となく繰り返し話しているが、ここが1番理解されないポイントだからである。だから安心して欲しい。ここがもし理解できなかったとしてもあなたが悪いのではなく、私の(あるいはあなたの?)内なる東浩紀がまだ育ちきってないだけなのである。
参考にだが、一緒に『はじめてのあずまん』を作った友人の斉藤大地は、「10年かかってやっとお前のいうことがわかった」ということを言っていた。どうやらこの部分はそれぐらい分かりにくいらしい。しかし私から言わせれば、「お前は最初から多分わかっていたし、それがやっと理解できるようになっただけである」と言いたい。彼がいなければ、この文章は確実に書かれることはなかったはずだし、今の私は多分ない。
内輪ネタはさておき。繰り返しになるが、やはり萌えという概念は手垢がつきすぎた概念となっており、私の考える萌えとあなたの考える萌えは多分違っている。だからまずその定義をきっちりとおこなっていく作業を進めたい。
ここで新たに召喚されるのは、批評界のイフリートこと宇野常寛である。
彼は、デビュー作『ゼロ年代の想像力』の中で、東浩紀(とその劣化コピー)の批判を展開した。要約すれば、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジに代表される90年代の「ひきこもり」・「心理主義」的な想像力は、もはやゼロ年代には時代遅れとなっていると指摘をする。一方で、ポスト9・11的な想像力、例えば、『バトル・ロワイヤル』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』などに代表される「決断主義」「サヴァイヴ系」と呼ばれる新しい想像力がより影響力があるということを指摘した。そして、そのような決断主義が支配する世界においての処方箋として、宮藤官九郎やよしながふみといった作家たちの作品中で描かれる「終わり」や「死」といったファクターによって、「モノはあっても物語はない」ポストモダンの状況から脱出することができるということを論じた。まあ,宇野常寛氏本人は雑なまとめだというかもしれないが、ざっくりといえばこんな感じである。
ここで、また批評用語がわからない読者のために注釈を入れておこう。
東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』の中では,セカイ系はいわゆる経済や政治といったみんなが信じられるもの=「大きな物語」(リオタール)が失効した社会の中で、そうした中間項を挟まずに、自身の周辺の物語=「小さな物語」を、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力と定義している。
一方で、宇野常寛のいう「決断主義」や「サヴァイブ系」はその引きこもるための「小さな物語」すらも危機的で,引きこもっていては生き残れないという感性を持っている。ここでは、複数の「小さな物語」が熾烈な生存競争をおこなうことで、やがて大きな物語へと到達するといった新自由主義的(あるいはリバタリアニズム)な想像力なのである。
このように宇野常寛は、東浩紀の批判的な読者としてデビューをした。そしておそらくだが、現在に至るまで東浩紀という思想家に対してもっともクリティカルな批判をおこなった批評家でもあり、現在に至るまで東浩紀とともに批評シーンをリードする編集者としての顔もある。
宇野の東浩紀に対する読みは非常に的確で、クリアである。おそらく私の友人のTwitterID @columbus20こと倉津さんとともに東浩紀の文章をもっともよく読んでいる読者だからだ。だから彼の読みをもとに東浩紀のいう「萌え」について考えてみよう。
東浩紀は「萌え」についてこのようなテクストを記している。
この文章をひきながら宇野常寛は『郵便的不安たちβ』の解説の中で、このように書いている。
またまた用語について少し解説しよう。モノフォニーとポリフォニーは,ロシアの文芸批評家であるミハエル・バフチン由来の用語である。そもそもが音楽用語であるが、モノフォニーは、一つの声部しか持たない単旋律の音楽のことであり、反対にポリフォニーは複数の独立した声部からなる音楽のことである。詳しくは彼の『ドストエフスキーの詩学の諸問題』を参照されたいが、従来の近代小説が作者が登場人物を操り作者の思想を表現するモノローグ的な小説に対して、ドストエフスキーの小説では、登場人物が作者と対等の存在として設定され、それぞれの持つイデオロギーや階層といった差異を前提としつつ、融合していない独立的な声や意識が織りなす対話形式の構造を持っている。それのことを、バフチンは、「カーニバル文学」あるいは「ポリフォニー小説」と名付けた。
ここで重要なのは、宇野常寛による萌え=複数的と恋愛(愛)=単数的という区別である。そして、これは「萌えは愛の上位概念」という発言に直結する非常に重要なポイントである。
この指摘を踏まえて別の東浩紀の発言を参照してみよう。
前述した私の作った同人誌『はじめてのあずまんω』の中で萌えについてこのような発言をしている。
ここで、東は明確に「確定記述」=「萌え」/「固有名」=「愛」という区別を行っている。
またまた批評用語の解説になってしまうが、ここでいう確定記述と固有名は本論の副題にもなっている用語であるので簡単に解説しておこう。
例えば、「東浩紀は、『存在論的、郵便的』の著者である」というとき、固有名とは東浩紀である。それは一般的な用語としてもよくわかるだろう。そして、それをなにかを説明し確定させる記述が、確定記述である。我ながら完璧な説明だ。
もっと説明しろって?それは、クリプキの『名指しと必然性』を読むか『存在論的、郵便的』を読むか村上裕一の『ゴーストの条件』でも読んでほしい。まあとにかくこの文章を読むにはそれぐらいの浅い理解で今のところは良しとしておかないと先に進めないので先に進もう。諦めは肝心である。
宇野常寛と東浩紀の発言からこのように整理できる。
萌え=複数的=確定記述
愛=単数的=固有名
このことだけではなんのことだかわからない?
それは私ももちろんそうだと思っている。
だが待ってほしい。
あの斎藤大地ですら10年かかったのだ。逆にこれをすぐに理解できたあなたは逆に頭がおかしい人なのかもしれない。だが、この整理こそがこの理論の核であり、「萌えは愛の上位概念」という謎を理解するためにもっとも重要な公式であるということを覚えておいてほしい。
とゆわけで③に続く。