哲学ファンタジー 大いなる夜の物語 謎その6
謎その6 何もかもが小さく見えたら、どんな感じ?
やがて、バスは終点に到着した。
僕は窓の外を見た。
「石戸さん、ここで降りるの?」
「そう、ここだよ」
でも、奇妙だ。市営温泉のバス乗り場って、こんなところだっけ。
こんなところだったような、こんなところじゃなかったような。
それに、バスはここへ来るまで、一度も止まらなかった。乗客はずっと僕たち二人だけだった。なんだかおかしい。
石戸さんと僕はバスを降りた。その途端、僕はよろめいて座り込んでしまった。
「どうしたの草野くん。気分が悪い?」
「おかしいな。急に何もかもが小さく見えるようになったんだ」
「大丈夫だよ。何も小さくなってないよ」
「ほら、石戸さんも小さく見える。自分の体も、バスも、建物も、何もかもが小さく見える」
「どうしちゃったのかな」
「ゆっくりなら、歩けるかもしれない」
僕は慎重に立ちあがり、石戸さんに支えてもらいながら、一歩ずつ前に進んだ。目を閉じたほうが楽に歩けた。目を開けると、何もかもが小さく見えて、うまく歩けなくなってしまう。
ベンチが見つかったので、ひとまず座ることにした。
「何だろう。こんなの初めてだ」
「しばらくここで休もう」
僕がベンチにもたれているあいだ、石戸さんは立ちあがり、ベンチの脇にある周辺地図を見ていた。
しばらくして、立ちあがれそうな気がしたので、ゆっくりと立って、周辺地図を見てみた。
地図も、ひどく小さくしか見えない。書いてある文字は、いくら目を凝らしても読めない。
「何が書いてあるの?」と聞くと、石戸さんは、
「『ノーウェア・スパーの街へようこそ』だって」と言った。
「ノーウェア・スパー?」
「〈どこでもない温泉〉ってことかな」
どこでもない温泉?なんだそれは。
「石戸さん、ここ、やっぱり市営温泉じゃないよね」
「ノーウェア・スパーというところみたい」
「少し歩いてみようか」
「大丈夫?」
「ゆっくりなら」
二人で歩くあいだ、石戸さんはささやくような声で、英語の歌を口ずさんでいた。
He's a real nowhere man
Sitting in his nowhere land
Making all his nowhere plans for nobody
石戸さんの英語の歌のせいか、ここが外国の街のようにも見えるし、でも日本の街のようにも見える。
「何の歌?」
「『ノーウェア・マン』っていう、ビートルズの歌だよ。〈どこにもいない男〉の歌」
「ノーウェア、か」
「〈どこでもない温泉〉とか、〈どこにもいない男〉とか、何なんだろうね。あ、草野くんが考えた、〈どれでもないバス〉っていうのもあったね」
僕が考えたんだっけ。
「〈どこにもいない男〉は、どんな男なの?」と僕が聞くと、
「ビートルズによると、視点というものがない男。自分の行き先もわからない人」
そう石戸さんは言って、つづきを歌いはじめた。
Doesn't have a point of view
Knows not where he's going to
Isn't he a bit like you and me?
「『ちょっと君と僕に似てやしない?』だって。似てるよね、私たちに。私たちも、行き先がわからない」
こんなときに楽しそうだなあ、石戸さんは。
隕石のことは忘れていないだろうな、まさか。