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インクルーシブ哲学へ⑮:精神の核――クリスマス会と哲学対話
▲ 前回
2024年12月15日、障がい支援団体主催のクリスマス会に行ってきた。
家族連れで100人以上が集まる、大規模なクリスマス会。
まず驚いたのは、スタッフの熱意。
子どもたちを喜ばせるために、子どもだましのまったくない、入念な準備。
完璧なスケジュール表に、楽しいプログラム、会場の素敵なデコレーション。
そして何より、自分たちが楽しもうという気持ち。
僕はボランティアで、お手伝いのお仕事。
会場設営、駐車場の交通整理。
クリスマス会が始まったら、スタッフの補助。
閉会後の片付け。
補助的な立場なので、参加者の方々と直接ふれあう機会はあまりなかった。
それでも、いろんな特性をもつ子どもたちが、みんな楽しんでいるのを見て、とても幸せな気分になった。
何より、反応が素直で、見ていて気持ちがよかった。
劇の悪役がこわいと泣き出す子。
抽選でプレゼントが当たったときの笑顔。
*
翌日には、中央スタジオというアートのためのスペースで、哲学対話に参加した。
問いは、「きくことと反応することの違いは?」
きいていて、わからなくても、反応する。
たとえば、おじいさんの話が途中からわからなくなっても、うんうんと反応する。
ただのきいているふりではない。
真摯に反応している。
そのとき、何に反応しているのだろうか。
相手が伝えようとしている一番大事なところ、精神の核のようなところに、反応しているのではないだろうか。
おじいさんの話の場合であれば、それは〈あなたとこうして話をしたい〉という思いかもしれない。
わからないながらも反応しているところに、その核に、伝えたいという思いがある。
もしかしたら、何を伝えたいのか、その内容は二の次なのかもしれない。
内容はともあれ、とにかく伝えたい、とにかく話をしたい、という思い。
そういえば、クリスマス会で、僕を見て反応してくれた女の子がいた。
僕からその子に、何が伝わったのかはわからない。
もしそこに僕の精神の核のようなものがあったのだとしたら、それは女の子にどう見えたのだろうか。どう伝わったのだろうか。
私たちは、内容はともあれ、とにかく何かを伝えたいと思い、話をするのかもしれない。
内容は天気のことでも、近況でも、何でもよいのかもしれない。
何でもよいから、その内容にくるまれた、自分の精神の核を届けたい。
内容なき、〈ただこうして伝えたい〉という思いを、ただこうして伝えたい。
そのようなやり取りを、何往復か何十往復かして、満足したときに、やり取りが終わる。
僕は、障がい支援のボランティアで、もっと反応の往復がしたい。
反応の往復を〈対話〉と呼べるくらいにまで増やすには、どうすればよいのだろうか。