連載小説|ウロボロスの種
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十二日目
意識されていなかった闇に、意識が向けられる。するとそれは闇ではなくなり、動くことができるようになる。
この港町にも、まだ意識が向けられていない場所がある。しかし、意識の向いていない場所に意識を向けるには、どうすればよいのだろうか。意識されていない場所は、私にとっては存在しないも同然だ。存在しない場所に意識を向けようとすることはできない。
昨夜の夢では、帯状のものが闇を指し示してくれていた。そのおかげで、そこに意識を向けることができたのだった。意識されていない場所に意識を向けるには、私以外の何かによる指し示しが必要なのだ。
この街では、何が、あるいは誰が、闇を指し示してくれるだろうか。
私は〈木〉を見ていた。それは巨木となっていて、町で最も大きな建物である大聖堂よりも、はるかに大きくなっていた。
巨木は実をつけはじめていた。あるいは、葉も花もつけない〈木〉が上下逆なのだとすると、それらは地下茎にあたるものなのかもしれない。
それらは茶色く、卵型をしていて、枝々からぶらさがっていた。大きさは、小さいものからちょうど鶏の卵ほどのものまで、様々だった。
やはり三人の女が、巨木となった〈木〉の周りで、ダンスをしていた。
私は、闇を指し示してくれるものを探しながら、町を歩いた。
見慣れた花屋、見慣れたレストラン、見慣れた家々……それらを通りすぎ、私の足はボヘミアン地区へ向かっていた。見慣れたものたちは私にとって、かの地区を指し示していたのだった。
気がつくと私は、〈東洋の神秘・針治療〉の看板の前に立っていた。
私はしばらく看板を眺め、小さなドアを開けて建物の中に入った。
そこは待合室になっており、二つの椅子と観葉植物が置かれていた。私のほかには誰もいなかったが、ほどなくして奥の螺旋階段から白衣姿の東洋人女性が降りてきて、
「こんにちはこんにちは。靴を脱いでお上がりください」と言った。
私は待合室の隣の部屋へと案内された。
その部屋にはベッドがあり、窓際には机と椅子があった。壁には奇妙な人体図がいくつも貼られていた。
治療師は、白衣の腕をまくりながら椅子に腰を下ろした。
私はベッドに座るよう促された。
「何かお困りでしょうか」
「くり返してしまうのを避けたいんです」
「なるほど! 上の服を脱いでうつぶせになってください」
私は言われたとおりにした。
治療師は、私の背中にタオルをかけ、触診を始めた。
「人間はくり返すと体内にわだかまりを作ってしまうのです。それはですね、人間が尾をなくしてしまったからなのです」
「尾……ですか」と私はうつぶせのまま言った。
「尾は放電装置のようなものでですね、体内の余分なエネルギーを流して逃がす役目を持っているのです。人間には尾がありませんからね、余分なエネルギーが行き場をなくしてしまうのです。そうするとですね、体内にわだかまりをつくってしまうというわけです」
治療師はタオルをめくり、私の背中に針を打ち始めた。痛みはなかった。そのかわりに、針を打たれた筋肉が反応して、鈍い重みのような感覚が生じた。
治療師は、肩、首、それから後頭部にも、針を打った。
「このまましばらく置きますね」
治療師が椅子に腰をかける音がした。
「どんな感覚がしますか」
「筋肉が温かくなっています。冷たくなっている感じがするところもあります」
「いいですね。温かい感じは、そこで滞っていたエネルギーがふたたび流れ始めている感覚です。冷たい感じは、いままでエネルギーがなかったところにエネルギーが入ってきている感覚です。つまりですね、冷たい感覚のほうがより神聖な感覚なのです」
「神聖……ですか」
「もともとはですね、温かさと冷たさは別々の感覚ではないのです。同じ一つの感覚なのです。あまりに熱い物を触ったとき、熱いのか冷たいのかわからないことがあるでしょう。あれがもともとの感覚なのです。熱さと冷たさが一体になっているのです。それが弱まっていくと、温かさと冷たさに分かれていくのです。苦痛と快感もそうですね。もともとは同じ一つの感覚なのです」
話を聞いているうちに眠気がやってきて、私は夢うつつの状態に入っていった。
私の尻に生えていた尾が抜け落ちて、ミミズのように蠢き始めた。
私はぎこちなく這っていた。私は這う肉だった。
肉は動く。肉を動かすために動く。動くのも動かされるのも肉。
肉が動くには、動く可能性が肉に宿っていたのでなければならない。その可能性が駆動されるには、その可能性が駆動される可能性が肉に宿っていたのでなければならない。そしてその可能性が駆動されるには……
肉はどのようにして動くようになったのだろうか。
肉の中で収束が起きているのだ。
夢うつつの中、治療師の声が聞こえるような気がした。
「あなたはですね、この世界に動きを与えるためにやってきたのです。あなたが来る前、この世界は固く結ばれ、動いていなかったのです。動く可能性しかなかったのです。そこへあなたがやってきました。すると世界は動き始めました。もとから動いていたかのように動きはじめました」
それはリリィの声のようにも聞こえた。
「あなたは誰ですか」と私は訊いた。
「私は夢です」
「夢……」
「はい。あなたが私を見ると、私は世界の中に影を落とします。ですから私は、この世界では夢の影です」
「あなたは夢であり……夢の影……」
気がつくと、治療師が針を一つ一つ抜いているところだった。
針を抜き終わると、治療師は私の背中にふたたびタオルをかけ、
「最後に筋肉をほぐしていきます」と言った。
うつぶせの体が、マッサージをされて小刻みに揺れた。
マッサージが終わると、治療師は、
「では、ゆっくりとご支度ください」と言い、待合室へと出て行った。
私は服を着た。体が軽くなっていた。意識が全身に行き渡っているのを感じた。足の指の一本一本までが私だった。それだけでなく、頭頂から渦巻く空気が出ているような感覚があった。
待合室で施術費を支払い、ドアから出るとき、見送る治療師がこう言った。
「わだかまりは何とかなりました。しかし、何かが刺さっていますね。それとも、生えているのでしょうか」
私は公園へとやってきた。昼間だというのに、焚火が燃えていた。その周りを、大きなものがぐるぐると回っていた。
それは大蛇だった。人々は針金と布とで、大蛇を作っていたのだった。いまやそれに立派な頭が付けられ、何人もの人が列になって中に入っていた。大蛇と一緒になって焚火の周りを走る人もいた。太鼓が激しく鳴っていた。
太鼓の音の中、私は立っていた。様々な模様の布でできた大蛇は、まだら模様に見えた。時折、中から人が出てきて、かわりに誰かが入っていった。そうして大蛇は焚火の周囲を回り続けていた。
空から水が落ちてきた。初めての雨だった。
焚火の炎が弱まり、そのうち消えてしまった。すると、大蛇はその場を離れ始めた。
大蛇はうねうねとした動きで、公園の中を巡った。一緒に走る人が次第に増えていった。
大蛇が私のほうへと近づいてきた。私は立ち尽くしていた。大蛇はすぐ近くまで来ると、前進をやめ、私に向かって頭を低くしたり高くしたりした。
大きな黒い玉でできた両眼が、鈍く光っていた。
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