テセウスと魔法の羽根
異様な雰囲気をたたえた、レンガ造りの巨大な迷宮。
その入口に、武器を持ったテセウスが立っている。
テセウスは、妻のアリアドネと話をしている。
テセウスは言った。
「なんで糸持ってきてないの?ミノタウロスのときみたいにしようって言ったじゃん。あれよかったじゃん。迷宮の門に糸をくくりつけておいて、糸をたらしながらミノタウロス探してさ。それでミノタウロスを倒したら、糸をたどって戻ってこれたんだよ?完璧だったじゃん。」
「しつこいなあ。」
「しつこいって……。あのさあ、アリアドネ、わかってる?僕はこれからドラゴンと戦いにいくんだよ?ドラゴンなんて、聞いたこともなかったよ。トカゲの化け物だよ?火とか吹くんだよ?下手したらミノタウロスより強いよ?仮に倒せたとしても、戻ってこれないかもしれないんだよ?それなのにしつこいって……」
アリアドネは黙り込んでいる。
「あ、わかった。チーズタルトのことをまだ根に持ってるんだな?」
「アリアドネのって袋に書いておいたのに。」
「字がね、小さいんだよ、アリアドネは。見えなかったんだよ。もっと大きく書いてあったら、僕だって勝手に食べたりしないよ。学校で字を習ったときには、大きく筆圧を込めて書いてたでしょ?こうさ、点線とお手本が書いてあって、ああいうのを頭の中でイメージして……」
「もうわかったって。」
「なんかおかしいよね。チーズタルトを勝手に食べたのは僕が悪かったけどさ、僕これから死ぬかもしれないんだよ?それなのにチーズタルトくらいで……いや、チーズタルトくらいっていう言いかたはよくない。でも僕これから死ぬかもしれないんだよ?わかってる?」
「わかってるよ。」
「本当にわかってる?何がわかってるのかな。」
「次からは大きな字で書く。」
「うん、そこじゃないんだよね。糸だよ糸。あれよかったんだよミノタウロスのとき。」
「せっかくこれ持ってきたのに。」
「何それ。羽根?」
「うん。魔法の羽根。これを空にかかげると、一度だけ、目的地まで飛んでいけるの。」
「それ早く言ってよ!それがあれば、ドラゴンを倒したあと、ちゃんと戻ってこられるじゃない。」
テセウスは魔法の羽根をベルトに差し、迷宮へと入っていった。
高い壁にはさまれた通路。見上げると、長細い青空が見えた。だが、日の光はほとんど届かない。テセウスは薄暗い中を歩いた。
「なんて厄介な迷宮だ。自分がどの方角を向いているか、まったくわからなくなってしまった。」
長細い空は次第に色を変え、ついには星が姿をあらわした。
「これはまずい。どんどん暗くなっていくし、足も疲れてきた。おまけにお腹もすいてきた。仮にドラゴンまでたどり着いても、これじゃ勝ち目がないぞ。」
テセウスは立ちどまり、しばらく思案した。
「うん、しかたない。今日はあきらめよう。魔法の羽根で脱出して、後日また出直すとしよう。次回はもっと早起きしてこよう。」
テセウスはベルトから羽根を抜き、それを上にかかげた。
魔法の羽根がエメラルドのような色に光った。すると、テセウスの体はふわりと宙に浮き、壁より高く持ちあげられた。
テセウスは羽根の動きに身をまかせ、迷宮の上空をただよった。
「戻ったらアリアドネにあやまらないとな。今日はだめだったって。それに出発のときは言いすぎた。チーズタルトのことも僕が悪かった。なのにこの羽根を持ってきてくれたんだもんな。おかげで助かった。」
そうつぶやいているうちに、魔法の羽根は高度を下げ、テセウスはゆっくりと着地した。
「あれ?」
そこは壁に囲まれた砂地だった。
「まさか」
あたりに恐ろしく低いうなり声が響いた。
薄闇の向こうに、二つの大きな目が光った。
テセウスは思わず叫んだ。
「もう!アリアドネ!」