インクルーシブ哲学へ⑤:言葉と、言葉でないもの
▲前回
2023年11月17日
■イベント:言葉と、言葉でないもの
■場所:オンライン
■主催:ボーダーレスてつがく
インクルーシブ哲学に反応してくれた人がいたことをきっかけに、「ボーダーレスてつがく」というチームができた。
ボーダーレスてつがくによるイベント第一弾、「言葉と、言葉でないもの」。
一人ひとり順番に絵を描き足していって、みんなで一つの絵を創るというワークをした。
そのあとの哲学対話で、興味深い考えがいくつも出てきて、深く考えることができた。
言葉で伝えるとき、言葉を発した当人にとっての意味(意図)が重視される。
「うずまき」と言ったとしたら、どういう意味でそう言ったのか、すぐに問われがちだ。
そして、意味を問われたら、意味を答える責任(responsibility、応答可能性)が、言葉を発した当人に負わされる。
それに比べて、絵で伝えるときには、当人にとっての意味はあまり重視されない。
うずまきの絵を描いたとしたら、抽象的な模様のつもりで描いたのか、銀河のつもりで描いたのか、かたつむりの殻のつもりで描いたのか、どれでもよいと(当人も含めて)思いやすい。
そして、どういう意味でうずまきを描いたのかと問われたとしても、とくに明確な意図はないと答えやすい。
つまり、意味を答える責任が、言葉に比べて軽いのだ。
みんなで絵を描く体験について、意味や意図の話になったとき、描くのが「楽だった」と言った人がいた。
意味(意図)を答える責任が軽いことが、楽だったのかもしれない。
それなら、言葉を使うときにも、もっと楽に使えないだろうか。
哲学対話では、「それはどういう意味ですか?」と問い、それに答えることが大切だとされる。
その逆のようなことはできないだろうか。
参加者の中に、知的障がいのある人と対話する活動をしている人がいた。
知的障がいのある人との対話では、突然無関係な話が出てきたりするけれど、それでも話は進んでいく、と話していた。
それでもいいとしてみることは、できないだろうか。
意味・意図・脈絡との繋がり……そうしたものへの責任から、言葉を自由にしてみたいと思った。
こんなワークを考えた。
大きな模造紙に、一人ひとり順番に、自由に言葉を書いていく。
意味や意図は問われない。
どの言葉と繋げてもいい。どの言葉とも繋がらなくてもいい。
そうして出来あがった言葉の集まりを眺めて、考える。
何か発見があるかもしれない。
それもまた探求的な対話ではないだろうか。
▼次回
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