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映画《ゴッドランド》における神的闘争
※画像は「みんなのフォトギャラリー」より
【以下、ネタバレを含みます】
この世界を超えて沈黙する神。
マグマを噴き出し激しく活動する大地。
どちらがより偉大なのだろうか。
デンマークの牧師ルーカスは、アイスランドでの教会建設を命じられた。
命じた老司教は、アイスランドの人々と環境に適応するようにと助言した。
困難を乗り越えて宣教をした使徒たちのことを思い出すように、とも。
あまりにも過酷なアイスランドの旅。
その途中で牧師ルーカスは、旅と同行者を激しく憎み、神に向かって悲痛な訴えを発する。
ところが、牧師を神から遠ざける「サタン」は、旅の途中にではなく、村に到着してから現れる。
つまり、アイスランドの大地に潜む「サタン」は、村での癒やしのあとに、本領を発揮しはじめる。
「サタン」はまず、村に住む女性として現れた。
牧師ルーカスは神から離れていく。
しかし、神から救いの手が差し伸べられる。
神の手を差し伸べたのは、アイスランドの男だった。
そのアイスランドの男は回心をし、牧師に懺悔をしたのだ。
ところが、牧師ルーカスは、救いの手を振り払った。
それどころか、神に背くに至った。
アイスランドの男の言葉は、神からの救いの手であると同時に、「サタン」のささやきでもあったのだ。
牧師ルーカスは、ただアイスランドに適応して神を忘れたのではない。
牧師としての彼は、アイスランドの大地に肉体ごと敗北したのだ。
「ゴッドランド」の「ゴッド」は、おそらく大地(アース・地球)そのもののことだろう。
キリスト教の側からみれば、それは「サタン」である。
大地の側からみれば、キリスト教は大地の一部に過ぎない。
「ゴッドランド」では、そのような神的闘争が起き、大地が勝利した。
映画のラストで、牧師ルーカスの肉体は、文字通り大地の一部と化していくのだった。
牧師ルーカスの内なる神的闘争を、たとえば葛藤として、言葉を通して描いていたなら、この映画はもっとわかりやすいものになっていただろう。
だが、《ゴッドランド》は大地の映像に語らせている。
その映像は「美しい」と言うにはあまりに厳しく不可解で、崇高の域に達している。
追記
ところで、アイスランドの吹雪く大地では、牧師は苦境に陥りながらも、むしろ神にすがり祈っていた。
牧師の信仰を危うくしたのは、過酷な旅路を経たあとの、村の夏である。
ダンテによる『神曲』の地獄は、入口の上層が燃えており、「サタン」は凍りつく最下層にいる。
《ゴッドランド》では、厳寒は信仰心を熱くさせ、「サタン」の力を弱めていた。
「サタン」は、厳寒の中に住まうのだろうか、それとも、温暖な中に住まうのだろうか。そんなことも考えさせられる。