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連載小説|ウロボロスの種
▲ 前回
九日目
朝、私は公園へ行く前に、〈木〉を見にいくことにした。
海に着くと、〈木〉はますます大きくなっていた。白いローブの女が三人、その周りを回りながらダンスをしていた。私はその光景をしばらく眺めていた。
〈木〉は葉をつけていなかった。枝はうねるような形に伸びていた。リリィが言ったように、〈木〉が逆さに生えているのだとしたら、伸びて広がっているのは枝ではなく、根なのだろうか。
私は公園に向かった。ボヘミアン地区に入ると、立ち並ぶ小さな飲食店は、まだ朝食で賑わっていた。屋外の席にゆったりと座る人々は、愉快そうに話をしていた。
公園ではお祭りが続いていた。焚火のあとと思われる場所から、煙が立ちのぼっていた。その周りの芝生には、眠っている人も何人かいた。
私は昨日のテントに入った。中央にはギターを弾く女がいた。静かなアルペジオが流れる中、ラグの上で眠る人が多くいた。
白いローブの人々は、昨日と同じ場所に集まっていた。花柄のワンピースを着たリリィがその中にいた。リリィは私に気がつくと、笑顔で手招きをしてくれた。
私は白いローブの一団に紹介された。そして、ラグの上に座るよう促された。
「この人がザゴラス」とリリィは言い、一人の男に手を向けた。
黒髪をもつその男は、声をあげて笑いながらこちらを見た。
「あなたが種の人だね」
「あ、はい。種というものに興味はあります」
ザゴラスは目を閉じた。ギターの音に耳を澄ませているように見えた。
「ゆうべはえらい騒ぎだったな」とザゴラスは呟いた。
「そうだったのですか」
「このあたりの人たちは〈木〉のことを喜んでるんだけどね、ちょっと騒ぎすぎかな」
「どうしてそんなに喜んでいるんですか?」
「なんでだろうね」
ザゴラスはしばらく考えていた。そしてこう言った。
「この地区の人たちは、自分たちこそがアダーモとエーヴァの子孫だと思ってるんだよね。町には移り住んでくる人もいるからね」
「そのことと〈木〉が関係しているのですか?」
「あの〈木〉、蛇みたいだと思わない?」
ザゴラスは急に身を乗り出してそう言った。私は少したじろいで、
「あ、はい。どんどん伸びていますし、今朝見たら、枝が蛇のようでした」
「うん、うん、だよね、だよね」
ザゴラスは満足そうに頷いた。
「いやあ、もうね、あの〈木〉を切っちゃおうとする人までいるらしいから」
なるほど。ダンスをする女たちには、〈木〉を守る役目もあるのか。
「なんで種?」
そう訊かれた私は、何を言おうか迷った。ふと思い出したのは、バー・ニュクスで数学者と話したことだった。
「種には芽吹く計画が宿っていますよね。その計画は、実行されるのを待っています。ということは、芽吹く計画を実行する計画も、種に宿ってなければいけません。そしてその計画も、実行されるのを待っています……というふうに、計画は無限に増えていきます。だとしたら、芽吹く計画がはたしてどうやって実行されるのか、不思議ではありませんか」
数学者は、収束が起きていると言っていた。収束は種だと言っていた。そうだとしても、どうやって、収束から無限の実行を経て、種は芽吹くことができるのだろうか。
「面白いね」とザゴラスは言って、真剣な表情になった。そしてこう言った。
「計画という言葉を使うなら、計画は秩序だね。秩序をもたらすためには、前もって何かしらの秩序がなきゃいけない。そして、その秩序があるためには、さらに前もって何かしらの秩序がなきゃいけない」
「無秩序から秩序は生まれませんか」
「そこなんだよね。可能性という言葉を使うなら、種には芽吹く可能性が宿ってる。その可能性は実現されるのを待っている。としたら、種にはその可能性を実現する可能性も宿ってる。これも無限に続く。でも、可能性というのは秩序とは限らない」
「可能性は秩序とは限らない……」
「むしろ無秩序のほうが、どんな秩序にでもなれる可能性がある」
「すると種に宿っているのは、無秩序から秩序が生まれる可能性ですか」
「無秩序には真ん中がなくて、秩序には真ん中がある。問題は、無秩序にどうやって真ん中ができたか、かな。どうして無秩序に真ん中ができる可能性があったか、かな」
そう言うとザゴラスは笑った。
「やっぱり真ん中は、どこからかいきなりやってくるしかないね。あの〈木〉みたいに。無秩序があまりに無秩序だと、真ん中ができたっておかしくない。いきなり真ん中がどこにできてもおかしくないくらいの無秩序」
永遠に無秩序のままの無秩序は、所詮は永遠性という秩序をもつ無秩序にすぎない。そういうことだろうか。無秩序が徹底すると、いつ秩序ができてもおかしくはない。徹底的な無秩序には、そんな突拍子もない可能性が宿っている。
私はザゴラスに訊いた。
「真ん中、つまり中心というものは、何らかの知性によって出現するのではないのですか。何らかの偉大な計画、秩序によって」
ザゴラスはこう答えた。
「突拍子もないような奇跡の御業は、徹底的な無秩序の気まぐれと一致するのかもしれないね」
私は夕方までのんびりとテントの中で過ごした。時々お茶が配られ、水煙草も回ってきた。少しずつ頭が朦朧としてくるようだった。無秩序な頭脳。しかし、そこから何かが出現するには、まだ無秩序は徹底していなかった。
日が落ちてくると、音楽が賑やかになり、人々は騒ぎ始めた。
私は立ちあがり、ザゴラスを含む白いローブの一団に礼を言った。
リリィもまた立ちあがり、私たちは二人でバー・ニュクスまで行くことにした。
「ザゴラスは、妖精みたいな人ですね」と、私は夕暮れの道を歩きながら言った。
「またいつでも来てください」とリリィは言った。
バーに着く頃には、日が落ちきっていた。リリィは白シャツとヴェストに着替え、開店の支度をしていた。私はブランデーを一杯もらい、端の席に座っていた。開けられた窓から、ゆるやかな風が吹いてくる。
窓からは、向かいの建物の二階の窓が見えた。その中は事務所か何かで、あちらでは片付け物をしているようだった。働いている女は、しかめ顔をしていなかった。ただ真剣な面持ちで、せっせと動いていた。
あの人も町を歩くときにはしかめ顔になるのだろうか、と私は思った。仕事を終えたら、どこの酒場で羽を伸ばすのだろう。
漁師の話によれば、昔この港町には結び目がなかった。あのボヘミアン地区は、その頃の名残りなのかもしれない。
だとすると、タウゾの父親の石に向かって私が祈ったように、町の結び目がほどけることがあるとするなら、そのとき町はどうなるのだろうか。ボヘミアン地区が町全体にまで広がるのだろうか。それはありえないことのように思われるが。
私は深酒をする気にならず、一杯だけで切り上げた。とてもよい気分で店をあとにした。
その夜の夢は、一進一退といった具合だった。〈核〉の数は思ったよりも多く、隠れていた〈核〉が次から次へと現れる。帯状のものは貼りつくと粘着力があり、〈核〉に泳ぎを妨げられたものは、脚などにへばりついている。〈核〉をほぐしていくと同時に、貼りついたものを剥がしていくこともしなければならない。
私は気が遠くなった。いつまで続くのだろうかと、徒労感に襲われた。
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