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言語は”思考の可能性”を規定する

言語は”思考”を規定はしない。
言語は”思考の可能性”を規定する。

使う言葉、想起する言葉、そういったものを通して、私たちは世界を見ているけれど、
だからと言って、自分が使える言葉や知っている言葉だけで”思考の全て”が支配されているわけではない。
ただ、当然、多くの言葉を知っている方が、”思考の可能性”は広がる。

西欧の近代化の影響を完全に受けてしまっている現代社会を生きる私たちの言語体系には、この点において、一つ大きな問題がある。

それは、「意志」と私たちの使う「言語」が切り離せないことだ。
例えば、

私はお腹が空いたからご飯を食べる。
私は予定があるから家を出る。
私は眠いから寝る。

通常、現代社会においては、これは「能動態」として区分され、「私の意志のもと」行われていることと見なされる。
私たちは「能動態」と「受動態」、つまり「意志の有無」で世界を見る癖がついているのだ。

でも、果たして、これは本当に私の「意志」なのだろうか。「能動」なのだろうか。
ちょっと考えただけでも、そう思わずにはいられない、不安定な文章であることが分かるだろう。

つまり、
お腹が空くのは当然で、食べなければ死ぬから食べるのであって、
予定があるのはもしかしたら私の都合ではなく上司に言われ、嫌々なのかもしれないので、家を出たくて出るわけではないのかもしれない。
眠くなるのも人間なのだから当然のことだ。そこに「意志」はないだろう。

そう、「能動態」だからと言って、そこに「意志」が存在するとは限らないのだ。
ただ、私たちが習う言葉には「能動」と「受動」しかない。それ以外を日本の義務教育過程で習ったことがある人はいないと思う。


ここで最初の問いに戻ってくる。
つまり、私たちは「意志があるのか、ないのか」というフレームワークでしか、社会を見ることができないのだ。
”思考”の幅が、奥行きが、物凄く窮屈に感じないだろうか。
思考の可能性”はまだまだ大きそうな気はしないだろうか。

これは現代社会の問題点だと思う。
ここを掘ると、もっともっと、豊かになれる可能性がありそうな気がしてくるだろう。

なぜ私たちは、大して面白くもないリール動画を1時間も見続けられるのだろうか。
なぜタバコを、アルコールを、やめられないのだろうか。
なぜ依存症なるものがこの世に存在するのだろうか。
そこに、私の「意志」はあるのだろうか。
その行為は「能動」なのだろうか、「受動」なのだろうか。

学校では習わないけれど、あれ、そもそもこれってなんでなんだろう?と疑問に思うレベルとしてはかなり普遍的なものなんじゃないかなと。

ここに、言語の歴史を学ぶ面白さがあるように思う。

「能動」と「受動」という「意志」と密接に絡みつけられた言語体系の外側には一体どんな世界が広がっているのだろう。

もしかしたら世界を全く違う眼鏡を通してみられるようになるのかもしれない。
そんなワクワクが湧いては来ないだろうか。

國分功一郎『中道態の世界  意志と責任の考古学』はそんなワクワク満載の世界へと、平易でリズミカルな文章ととともに、我々一般市民を案内してくれる一冊である。

私もまだ4章を読み終わった段階で、次の章はまさに「意志と選択」。

読み終わった後の世界は、どんな世界なのだろう。
哲学・歴史・言語学。
人文学の魅力が凝縮した一冊、じっくり味わいながら、読み進めていきたい。

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