②「才能と量」
つぶやきにも、書いたが、1500という文字を、半ば無理矢理、書いた結果、「達成感」があった。軽く疲労したが、それは仕事をしたなあという感覚だった。
小さい頃、リレー作文というのが、学校であって、自分は、夢中になって、書いていた。それは、面白かった。書けば書くほど面白かった。そんな感覚で、大人になっても文章が書けたらなと思っていたが、難しかった。しかし、30点と思える文章を、半ば無理くり、さりむり、やんぎもんぎ書いたことによって、あの頃の面白さが少し芽生えてきている。大人になってからのように計算した文章ではなく、思い付いたことを思い付いたまま書く文章で。
プロ野球選手になりたくて、プロ野球観戦だけをしていても、プロ野球選手には、なれないだろう。何事も実践が必要だ。文章を書くのも同じように、人の文章を沢山読んでいるだけじゃ駄目だ。実際に文章を書かなくちゃならない。はじめから沢山の文章を書くのは、苦しいかもしれないけど、慣れていくと思う。書けば書くほど楽になっていくんじゃないかな。楽にならないのは、ちゃんとした文章を書こうとしているのかもしれない。子どもの頃のように、剥き出しで行こう。
とにかく量だ。量が大事だ。大量祭りだ。ゴールが量で、プロセスも量だ。そのためにどうしたらいいか考える。書くことが楽しくなってきたら、しめしめだ。
向き不向きもあるかもしれない。僕は、いままで苦しいことをやってきたかもしれない。それは向いてなかったといえるかもしれない。多少の苦しさは、まだあれど、文章を書くことは、比較的、楽だ。向いているのかもしれない。
ただ才能だけでは、駄目だ。それを伸ばしていかなくてはならない。でも小手先のテクニックでは駄目だ。圧倒的な量だ。量をこなしていく内に、技術が身に付いてくる。昭和的だろうか?でも真実だと思う。
ピカソも歴史上で一番、作品を作った。ホリエモン流にいえば、「沢山、打席に立て!」だ。逆にいえば、量がこなせないことは、向いてないことなのかもしれない。人々があっと驚く量をこなすことが、あっと驚く作品を作ることに繋がるのかもしれない。
じゃあ、果たして、自分の中に、そんな量をこなせるようなものは、どうやったら見つかるだろうか。それは、「人から褒められたこと」にあると思う。特に幼少期から青年期を経て、大人になるまでに、褒められたことにあると思う。あからさまな「褒め」じゃなくても、感心されたとか驚かれたでもいい。それがあなたのなかで当たり前で、なんでもないことであったとしても。いや、当たり前にこなしているからこそ「才能」なんだと思う。
あるいは、「みんな、なんで出来ないの」って思っていること、それも才能の可能性が高い。僕で言えば、文章は、テキトーだったがこんなの楽勝に書けるじゃんと思っていたし、褒められたことは、文章やTシャツのセンス、野球のバッティング、カードゲーム、オセロ、記憶力などがある。「なんで出来ないの?」は、気遣いや思いやりなどだ。よくある話で、イラっとすることに才能が隠れているなんて話もある。それも「なんで出来ないの?」の一種だろう。
と、ここまで書いてみたが、もう少しで、1500文字に行きそうだ。やっぱり労力を使うし、苦しさもあった。いまだにまだちゃんとした文章を書こうというクセもあるが、ここまで書けるってことは、プロ並みではないにしろ、才能があるのだと思う。しかし、この程度の才能は、探せばいくらでもいるだろう。才能を伸ばして行けるかが大事だ。よく超一流の野球選手が、自分より才能がある人は、沢山いたと言うのを聞いたことがある。やっぱり才能だけではなく、それを伸ばしていく必要があるのだろう。そのためには、なんども言うが、「量」が鍵なのだろう。
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