分人主義とミスチルと...仏教!?
二つ目の本 平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』
2月頃に同世代のお坊さんフレンズ4人でご飯をしていた時に、一人の友人が、
昔先生に「仏教の縁起の思想を、仏教用語を使わずに説明するなら、この本のようになる」って言われて読んでみた。みんなも読んでみて。
と言ったので、とても気になって読んでみた。
(記事トップの画像は、このお坊さんフレンズの2人とビルマに行った際の写真)
こちらも「私とは何か」と、自分の存在そのものを問うている。
何もかも上手くいってる人は持たないような疑問かもしれないが、人生はそんなに甘くない。
社会に出れば、「お前っている意味あるの?」と強く突きつけられることもある。
現代では、人間の仕事がどんどんAIや精密な機械に取って代わり、ますます自分のアイデンティティについて悩まされる人が多くなる。
こんなことを言われたことがあった。
一見、人生を豊かに生きているように見えた友人が
俺はアイツのことが好きなんだけど、なんでアイツが俺と一緒に居てくれるのが分からない。アイツは金もあって、教養もあって、面白い。なのに、俺はどれもアイツほどじゃない。俺と居てもメリットがないだろう
と悩んでいた。
みなさんも同じような経験はないだろうか。
本書はこのように、自分とは、アイデンティティとは、と悩む人に、一つの光を射してくれるような本だと思う。
分人主義
この本では、平野氏が〈分人主義〉を説明し、勧めている。
〈分人主義〉の詳しい説明は、この本を読んでもらいたいが、短く説明すると
「分人」とは、私たち人間は、対人関係の中で、それぞれ違う顔、人格を持っているということ。その「分人」が集まったのが自分と考えること。
つまり〈分人主義〉とは、
人によって違う顔を持つ自分、その全てが「本当の自分」だと考えよう!
というもの。
例えば、ある仕事のグループの中にいる自分の顔は、先輩や周りの目ばっか気にして、気遣ってばかりいる。周りからも大人しい人だと思われている。そこで「こんなのは私じゃない!私はもっとはっちゃけいて、うるさい人なんだ!」と思う。
しかし、仕事からは抜け出せず、毎日、仮の顔を作った自分で過ごさなければならない。「本当の自分で生きていない」と実感して、思い悩んでしまう。
しかし、〈分人主義〉の立場では、
仮の顔を作っている自分もまた「本当の自分」であり、仮の顔を真っ向から否定しなくてもいいのではないか、という見方ができる。
仮の顔を否定してしまうのは、自分そのものを否定する見方になってしまう。
そうではなくて、仕事の時の分人も本当の自分で、プライベートの時間の分人も本当の自分。
どの分人も本当の自分だと考えた上で、居心地が良いなと思う分人や時間があるのなら、そこを足場として生きればいいということだ。
みんながみんな、仕事を生きがいとできる訳ではない。
みんながみんな、好きを仕事にできる訳ではない。
それなら、仮の自分=辛いと考えるよりも、それはそれと割り切った方が、もっと楽になれんじゃないかな。
縁起と〈分人主義〉
そもそも仏教でいう縁起とは、
全ての物事は関わり合って存在している
ということ。
例えば、Aさんという人間は、
肌があって、髪の毛があって、骨や血液があって、
それらは水分やタンパク質で出来ていて、
もっと細かく見ていけば細胞があって、原子があって、
原子の中には原子核と電子がある......
ということになる。
それらが関わり合って存在しているのがAさんという人間である。
(物事が仮に集まることを仏教では「和合」という。Aさんは小さな細胞が和合されて仮に出来た存在といえる)
だが、仏教の縁起観で人を見る時は、このような肉体的な観点でしかなかった。
(確かに縁起は合理的で科学的な考え方だし、前の記事の本では池上彰氏が宗教と科学は密接に結びついていると主張している)
しかし!
精神的な縁起観で人間を見ることもできるのではないだろうか。
つまり、
親友といる時は、大雑把でうるさい分人
先輩といる時は、物静かで真面目な分人
恋人といる時は、おおらかで、キザな分人
初対面の人と会う時は、人見知りな分人
どれも本当の自分で、これらぜーーんぶの分人が集まって、"私"が存在するということ。
大雑把な分人を本当の自分だと思い込んで、恋人といる時の格好つけた分人は本当の自分じゃない!と思ってしまうことはよくある。
素の自分を晒け出せる恋人じゃなきゃいけないんじゃないかって。
でも、本当にそうなのかな。
俺は、恋人の前では格好つけたり、優しくなれる自分も、"あなた"だと思うよ。
Mr.Childrenのファスナー
実はこう考えるきっかけとなった歌がある。
本書を友人に紹介された時、まさにこの歌が頭に浮かんで、逆にこの歌を友人に教えた。
それは、Mr.Childrenのファスナーという曲だ。
1番のサビに
きっとウルトラマンのそれのように
君の背中にもファスナーが付いていて
僕の手の届かない闇の中で
違う顔を誰かに見せているんだろう
そんなの知っている
とあり、僕にはウルトラマンのような仮の姿しか見せず、違う顔を誰かに見せていることを、少し悲しんでいる。
しかし、物語は進み、最後のサビでは、
きっとウルトラマンのそれのように
君の背中にはファスナーがついていて
僕にそれを剥がし取る術はなくても
記憶の中焼き付けて
そっと胸のファスナーに閉じ込めるんだ
と、相手が見せてくれている顔を、そっと静かに受け入れる。
そして、最後に
惜しみない敬意と愛を込めてファスナーを...
と歌って終わるのだ。
僕に見せてくれた相手の顔を受け入れた時、その相手に敬意と愛を込めることができる...!!
某テーマパークのイメージキャラクターの中身が人間であることなんて、誰もが知っている事実だ。
でも僕たちは、そのキャラに会う時、そのキャラが実際にそこに実在していると思って接するだろう。
僕なんかもう、キャッキャ騒ぐタイプだよ(26歳 男性、彼女なし)
でもそこに、仮の姿(分人)に対する敬意と愛があると思うんだ。
なにも、その奥の本物を知ろうとしなくていい。
それをそれとして、接する。これでいい。
だから、職場での自分も、悩める恋人との自分も、仮の姿だと思って苦しまなくていい。
確かに嫌になる時もあるだろうけど、真っ向から否定しなくなるなら、ちょっとは肩の荷がおりるんじゃないかな。
実は、仏教にもこういう世界観がある。
阿弥陀如来という仏様の救いは「そのままの救い」。
どんな自分でもいい。
どんな自分であっても、大きな慈悲で丸ごと包んでくれる。
どんなあなたも、あなただよって。