【2歳の息子が藩主に!?】母としての強さが描かれた、伊達家三沢初子の一生
皆さんこんにちは。正覚寺広報です。
正覚寺の境内では梅の花が咲き始めました。
中目黒の桜は毎年多くの方が集まるスポットとして有名ですが、少し早い時期に咲く正覚寺の梅も風情があるのでぜひご覧くださいね。
ところで、正覚寺の境内の中心に女性の銅像が立っているのですが、皆さんこの女性がどのような人物がご存知でしょうか?
この女性像の正体は、伊達家第3代藩主伊達綱宗の側室「三沢初子」であります。
伊達騒動を題材とした歌舞伎「伽羅先代萩」の大役「政岡」のモデルとしても広く知られており、歌舞伎界の演者の方々もよくご参詣にお越しいただいたりしているんです。
では、なぜ三沢初子の銅像が正覚寺にあるのか?
実は現在の正覚寺を語る上では、彼女なしでは語れないと言っても過言ではないご縁にあるのです。
母親としての心の強さが描かれた彼女の壮絶な人生。そして正覚寺とのご縁を今日はご紹介します。
才色兼備な三沢初子の波乱な人生
時は遡ること1653年。
早くに両親と死別してしまった三沢初子は、当時伊達家二代藩主の忠宗の正室である振姫のお側にお仕えしていました。
彼女は容姿端麗で、頭脳も実に聡明だったと言われています。才色兼備な彼女を振姫は高く評価しており、忠宗と相談の上で三沢初子は伊達家三代藩主の綱宗の側室となりました。
綱宗は生涯を通して正室はとらなかったため、初子が実質的に正室の女性と言われています。
努力と才能を持ち合わせた三沢初子の人生も、伊達家のおかげでめでたしめでたし・・・と終わると思いきや、彼女はここから波乱の人生を起こすことになります。
わずか2歳・・・「赤ちゃん藩主」誕生!?
三沢初子が側室としてついた伊達家三代藩主の綱宗は、当時酒色に溺れる日々を過ごす絵に描いたようなダメ男で、藩政など顧みないような暗愚な藩主として有名でした。彼女も相当振り回されたのではないかとお察しします。。
もちろん、愚行を日々繰り返すボスを見て周りが黙っているわけもなく、なんとわずか2年で綱宗、そして側室の三沢初子も巻き添えになるような形で共に隠居謹慎を命じられてしまいます。
となると、次の藩主は誰になるのか。。。
そこで名が挙げられたのが、まだわずか2歳だった綱宗と初子の息子、綱村です。
今でいうと2歳の子に「都知事をやれ!」と言っているようなものですから、あまりにも無茶苦茶な話ですよね。マニフェストどころか言葉もままならない状況です。
もちろん藩政などコントロールできるわけもなく、実権を握ったのは大叔父にあたる宗勝でした。まだ赤ん坊のボスをいいことに、身勝手な集権化を行なっていたことがかの有名な「伊達騒動」呼ばれる事件に繋がっていきます。
ここでは伊達騒動の詳細は割愛しますが、ここで何より気が気でないのが、綱村の母である三沢初子です。
ふしだらな旦那と共に隠居を命じられ、愛する2歳の息子はあれよあれよ藩主に。我が子の無事を案ずる初子は、鬼子母神像を刻んだ木像を自身のまげの中に納め、綱村の除災招福を祈願したといわれています。
子の安全や健康を想う母親の気持ちはいつの時代も変わりません。
なにせ当時はインターネットなど情報を得る手段がないことはもちろん、いつ責任を問いただされて息子が斬殺されてもおかしくないような時代ですから、親の気持ちを考えるといかにただならぬ心情かが伝わります。
そんな母・三沢初子の一途な想いは叶い、綱村は伊達騒動を生き延び、のちに名君と呼ばれるほどの藩主へと成長していきました。
伊達騒動が収束したときには、初子はまげの中の仏を綱村に与え「これはあなたの守り本尊だから、城外に安置しなさい」と渡したと言われています。
まさに、命がけの子守りですね。
三沢初子の帰依から始まった正覚寺鬼子母神堂
鬼子母神様へ深く祈念していた三沢初子は正覚寺にも帰依し、当時困窮していた正覚寺の存続にも大きな影響を与えました。
三沢初子が信仰していた鬼子母神様は、のちに霊験あらたかであると評判となり、正覚寺は多くの参詣者が集い、今では当寺の象徴ともなっている鬼子母神堂が建設されるきっかけにもなりました。正覚寺を語る上では、三沢初子の存在は欠かせないのです。
そんな深くご縁のある三沢初子の墓は境内に安置されており、都指定文化財にもなっています。
「子を想う母の象徴」としての三沢初子像。
子を守る覚悟を見せたその表情を、子供のいらっしゃるお母さんはぜひご覧になってみるのはいかがでしょうか。
そして子宝・子育の神様を祀る鬼子母神堂で、三沢初子の想いを重ねながらご家族の安全を祈願してみてください。
それではまた次回の記事でお会いしましょう!
編・正覚寺広報