#3 気付けるということ
1.愚痴
今年度も、あと二週間ほど。
だからと言って思うところがあるわけでもなく、正直何の感慨も達成感もなく、無感動に(いや、こんな日々ももうすぐ終わる、ということには感動しているが)淡々と日々を過ごしている。
今年度から、現任校に来た。
一年経っても、現任校の体制に対する不満は変わらない。
「おかしいな」と思うことは大なり小なりいくつもあった。
いくつかの些細なことは管理職に訴え変えてもらったが、それらはしょせん枝葉の部分に過ぎない。幹の部分を変えなければ、この学校は何か大きな歪みを生みそうな気がしている。(というか、既に生んでいるのだけど)
今回は、そんな「おかしいな」に関する話。
2.価値語モデルについて
現任校は、全国的に有名なある教師のメソッドを教育の柱として採用している。名前は伏せるが、「ほめ言葉のシャワー」(←この言葉、虫唾が走る)などの実践で有名な、学級経営のプロのお方だ(この時点でどなたのことか、お気づきでしょう)。
このお方の実践、確かに素晴らしいのだと思う。参考にしたいところもいくつもある。
ただ一方で、どうしても拭えない違和感を抱いているのも事実。
現任校では、このお方の実践をそのまま学校単位で取り入れている。このこと自体も個人的には不満なのだが、それはとりあえず置いておくとして、
その実践の中に、「価値語モデル」というものがある。
これは、学級で見られた児童の望ましい姿を写真に撮り、その素晴らしさを評価する言葉とセットで教室に掲示するというものだ。
この評価の言葉を「価値語」といい、価値語と写真に撮った具体的な姿でお互いに認め合える、高め合える学級をつくっていこうとする実践である。
僕は、この実践自体はいいものだと思っている。
「価値語」は基本的に担任が書くので、各担任の思いや個性が出る。
しかし、この実践の発案者であるお方、前述したようにとても有名な方なので、著書もたくさん出している。その影響で、このお方考案のいわゆる「キラーフレーズ」もたくさん世に出回っており、これらはあらゆる教室で引用されている。
その中に、どうしても違和感を抱いてしまうものがある。
それは、「一人も見捨てない」という価値語。
ある学級で、この価値語モデルが掲示されていた。写真を見ると、ある一人の男の子に声をかけている子が写っている。おそらく授業中に分からないことがあったのだろう男の子に、優しく声をかけているクラスメイト、といった構図だ。
その写真の上に誇らしげに書かれた、「一人も見捨てない」という言葉。
これを作った先生にも、声をかけている子にも、悪意はないと思う。むしろ、100%善意だろう。しかし、というか、だからこそ、というか、僕はすごく、嫌な感じがした。
3.「一人も見捨てない」に対する違和感
なぜ、この価値語モデルに僕が違和感を抱いたか。
想像されれば分かると思う。
その写真に対して「一人も見捨てない」という言葉を添えることは、
逆説的に、声をかけられている男の子が「見捨てられうる存在」であるということを示唆するものだからだ。それも、教室の全員に対して。
価値語モデルは基本的にどんどん付け加えていくものなので、一年分のものが教室に蓄積される。つまり、「見捨てられうる存在」であるとみなされた子にとってみれば、一年間、屈辱的な思いを抱くことになる。
もしかしたらその子はまったく気にしていないかもしれない。
しかし、そういう問題ではないのだ。
「その写真」に「一人も見捨てない」という言葉を添えることで誰かを傷つけてしまうかもしれない、という可能性を想像できていなかったであろうということが問題なのである。
僕からすると、弱者(という言葉もあまり使いたくないのだけれど)をダシにして、強者による上から目線の「施し」を美談に仕立て上げているような感覚になる。
というか、「一人も見捨てない」という言葉自体が嫌いだ。
この言葉には、「見捨てる側」と「見捨てられる側」とが学級に存在するということを暗に示している。
…とはいえ実際は、そのような現実はあるだろう。そこは否定できない。
ただ、それを認めるような言葉を教師が使ってしまうのは絶対に間違いだ。それも、子どもに対して。
現に、この価値語モデルを見た子どもがどう感じるか。
「あ、この男の子は助けてあげないといけないんだな」
「『一人も見捨てない』だから、見捨てないであげなきゃ」
そんなふうに思う子がいても不思議じゃない。
それって、格差があることを是認してない?
もっと平たく言うと、その男の子のこと、バカにしてない?
4.「一人も見捨てない」に対する違和感(ブースト編)
まだ続きがあって、
「キラーフレーズ」の中に「一人が美しい」というものがある。
これは、周りに流されずに一人でも正しいこと、望ましいことをする姿、または一人で集中して考えを深めている姿は美しい、という感じの価値語だ。たぶん。
「一人も見捨てない」という言葉がある一方で、「一人が美しい」という言葉もあるというプチ矛盾。
いや、文脈や状況によってこの二つの言葉が共存しうることは分かるけど、
「一人も見捨てない」状況として写真に写っている男の子が、本当は「一人は美しい」パターンで一人なのだとしたら?
その可能性は、想像したのだろうか?
教師が、あるいは声をかけているクラスメイトも、その一人でいる男の子は「見捨てられうる存在」という目で見ているから、その状況は「一人も見捨てない」という価値語モデルになるのだ。
これって終始強者の目線での話だ。そこにライドできない子、絶対いるでしょ?
5.教師として大事なこと
以上のような理由で、僕は「一人も見捨てない」という価値語に違和感を抱いている。というか、嫌い。
教師として大事なのは、こういう些細な違和感に気付けるということだと思う。
例えば、「保護者に見てもらってね」という意味で「お母さんに見てもらってね」と言うことに対する違和感。お母さんがいない家庭だってあるのだ。
(めがね旦那先生の『その指導は、しない』からの雑な引用)
例えば、「お誕生日プレゼント、何もらった?」と言うことに対する違和感。どの子も誕生日プレゼントをもらえる家庭で生きているとは限らない。
こういう何気ない言葉の裏に潜んでいる些細な違和感に我々は敏感に気付かなければいけないし、その違和感が誰かを傷つける可能性を想像しなければいけないし、それを踏まえたうえでどのように言えばいいのか(あるいは言わない)を考え実践しなくてはいけない。
だから、少なくとも僕は「一人も見捨てない」は絶対に使わないだろう。
発案者のこのお方は、子どもの成長に欠かせないものとして「言葉」を重視していると著書で語っていた。学級でどんな言葉が飛び交うかが、学級の良さのバロメーターなのだと。言葉が、子どもを成長させるのだと。
それぐらい大きいものだとしたら、教室での言葉、教師の言葉が子どもを傷つけることだってあるはずだ。その危険性を常に孕んでいることを、我々はもっと自覚しなくてはならない。
今日の1曲:なにもかも/THE SPELLBOUND
https://www.youtube.com/watch?v=wCwDo2iUUks