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<「念のため」と「何のため」の教育論>79/100

「どうして勉強しなくちゃいけないの?」

子どもからの この問いに 皆さんはなんと答えますか?

僕は「やりたいことはそう簡単に見つからない。それが見つかった時に"選べる自分であるため"に勉強するんだよ」と答えてきました。

この考え方を「念のため教育論」と呼んでみます。これは僕が思いついたというより、僕が幼少期に親からそう教わってきたんじゃないかと思います。

しかし、最近 先輩から聞いた話が、僕が43年間信じてきたこの「念のため教育論」を揺るがしています。


国語算数理科社会がない学校!?

その先輩のご子息が通う学校はかなり特殊で、まず国語 算数 理科 社会がないそうです。僕たちが当たり前に小学1年生から触れてきた必須カリキュラムの代わりに、Farm(農業)Craft(工芸)Théâtre(演劇)などのプロジェクトがあり、それらに学年をまたいで取り組んでいくことが基本。

だから当然、文科省の学習指導要領からは大幅に遅れ、いわゆる学力は劣後していきます。

でもこのプロジェクトを進めていくと、例えば農業で育てる植物を枯らせないために理科の知識が必要になり、工芸で部品の大きさを揃えるには算数の概念が必要になってくる。そうやって子どもたちが困って、欲しがったら大人たちがようやく知識を授ける。

ちなみに先生と生徒という呼称もないらしく、大人と子供とカテゴライズされており、大人もまた自分でプロジェクトを選び、知識がないところから子供と一緒に試行錯誤するんだとか。

何せ困って欲しがっているところに与えられる、特効薬のような知識だから、もう子供達の吸収が半端じゃないと。初期の遅れが嘘のように成長して、中学を卒業して選ぶ進路は名門校も甲子園球児も専門学校もいる。誰かのモノサシではなく、自分のモノサシで道を選ぶようになる。

運動会の練習はしない

運動会も独特で、まず練習はしない。そして人に見せるための運動はしない。種目に対して、大人も子供もやりたい人だけが集まり少しリハーサルして本番。

最後まで何にも参加せずに見ているだけでもOK。画期的!

たしかに徒競走全員参加とか、速い子の見せ場ではあるけど、遅い子には公開処刑。全員参加で順位をつけないという解決策より、やりたい奴だけで存分に競えという方がスポーツの本質に近いかもしれない。

「何のため」を見つけることにフルコミット

一貫して感じるのは、その子の「何のため」を見つけることにフルコミットし、徹底的に待ち、寄り添う姿勢。

…あれ?こっちの方が良くない?

これを僕が長年信じてきた「念のため教育論」の対極にある「何のため教育論」と勝手に名付けてみました。

学校と社会ってゲームルール違いすぎ問題

与えられた課題を解き、個人戦を勝ってきた人が、学歴社会における強者です。しかし社会や会社に入ってみると、課題は与えられるものではなく見つけるもの、さらに個人戦ではなくチーム戦を戦わなくてはいけません。(だからチームスポーツとかやってるといいのかも)

学校教育の目的を「社会の一員になるための準備」とするなら、このゲームルールの違いはいかがなものか。

日本が戦後一直線に成長していった時代と比べて、現代はVUCAとか言われて、何だかとてもわかりづらい時代。シンプルな答えを世間がくれない時代において、教育は昔のままでいいはずないよねぇ…といった具合に「念のため」と「何のため」の教育論について考えてみました。

さりとて僕は「念のため」人間でありたい

やはり人の心を熱くするのは「何のため」なんでしょう。

さりとて僕は「念のため」準備ができる人間でありたいと思っています。

時代は変わる、自分のやりたいことも変わる。負けて気づくことは誰にでもできるけど、負ける前に気づく奴が勝つのだ。

とするなら、いつの時代も、心を熱くしてくれない「念のため」に淡々と向き合って準備する人が、最後に笑っているのかもしれない。やっぱりGRITだね!w

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