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<自然か人文か、それが問題だ>78/100

先日、医師の友人から興味深い話を聞きました。


ゆっくり動くのは生者のための儀式

医師とは、死亡確認を認められた職業でもあります。

患者さんの最期を看取るその時に、彼が心がけているのは「ゆっくり動くこと」だそう。

テキパキせずにゆっくりと厳かに
ペンライトで丁寧に瞳孔を確認し
スマホではなく腕時計で時間を確認し
死亡確認時刻とご臨終を告げる

それは死者のためでなく、残された生者(多くの場合は家族)のための儀式として。

自然科学か人文科学か

この話が素敵だなと思う一方で、脳裏に蘇ったのは数年前に聞いた小児科医の方のお話。

その方は乳幼児の熱性けいれんを引き合いに、医療には「自然科学」と「人文科学」の二つの側面があると仰っていました。

熱性けいれんとは生後半年から5歳までの乳幼児が高熱を出した時に起きうる症状で、特徴としては全身けいれん、白目、泡ふきとなかなか凄惨です。

慌てた親は救急車を呼ぶわけですが、実はこの熱性けいれんはほとんどの場合5分以内に収まり、後遺症の心配はないんだそう。だから、経験と知識が豊富な医師からすれば「こんなことで救急車呼ぶんじゃねぇ!!」というのが本音。自然科学としての医療としては、これが正しいということになります。

一方、初めての子育てで、初めて我が子の熱性けいれんを目の当たりにした親の、実に8割以上が「子どもが死んでしまう」と思ったというデータがあり、この親の気持ちに寄り添うのが、人文科学としての医療なのであると。

どちらも医療。どちらが正しいというわけではない。

が、AIが発達していく中で、知識の非対称性は失われていき、自然科学としての医療は人間の仕事ではなくなっていく部分も多いのかもしれません。だとすれば、相対的に人文科学的な医療の重要性が高まることになりますが、そのような教育/育成体制になっていないことが問題だと。

大人の学びは痛みを伴う

なんだか耳の痛い話です。

自分自身、スポーツマンだった時も、ビジネスマンだった時も、なんとか能力を伸ばして、自分の優秀さによって競争に勝ち抜こうと頑張ってきました。でも、今後の世の中で鍵になるのは、個人の能力(自然科学的)よりも、人の心に寄り添い 人の能力の発揮率を高めるスキル(人文科学的)ということなのでしょう。

43歳にして、積み上げてきた価値観を捨てなければ、この先の成長が見込めないという恐怖。なるほど、これが「大人の学びは痛みを伴う」ということか。怖さに負けずに自分を否定し、そうしてできた隙間で新たな学びを受け入れられますように。

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