はじめに|大塚ひかり『ヤバいBL日本史』
はじめに 日本文化の真髄は「腐」にあり
日本が売られる、沈みゆく日本……近年、そんなことばが世間にあふれています。現実にそうした傾向が進んでいるということもあるでしょう。
そんな中、変わらず元気なのは漫画やアニメの世界です。
中でもBLは世界でも注目の的。
BLとはボーイズラブの略で、今さら説明の必要もないと思うのですが、男同士の恋愛・性愛関係を描いた作品を指し、少女漫画の世界から発生しました。ざっくりいえば男性同性愛なのですが、BLの場合、火のない所に煙を立たせるというか、あらゆる人や、モノにさえ、恋愛感情を見出し、その「関係性」のエロスを楽しむものといえるでしょうか。つまり「妄想」の部分も大きいのです。そして、そうした作品を好む女子を「腐女子」といい、最近では女子のみならず、「腐男子」も増え、裾野は広がる一方です。
そんなBLについて、実は十年近く前から本を書かないかと何人かに声を掛けられていました。
けれど私は……幼稚園時代から漫画家になりたかったほどの漫画好き、中学以降も古典と漫画しか読まないオタクではあったものの、大学での専攻は日本中世史で、生活も仕事も古典文学中心に回っています。思考回路も古典文学脳になっていて、恋愛相談を受ければ『蜻蛉日記』の作者の藤原道綱母の体験談が心に浮かび、お金の話になると井原西鶴の『日本永代蔵』や『世間胸算用』の例が頭に浮かぶ人間です。
前近代の男色ならともかく、追々触れるようにBLは男色とは重なる部分はあるものの、イコールではないし、私のような古典文学脳の者がBLの大世界に近づけるのだろうか……という迷いがあったのです。
が、ここにきて、これは書かねばと思ったのは、まず男色抜きには日本史は語れないということ、そして男色とはズレると思っていたBLですが、日本の古典文学や演劇を見ていくと、日本文化の真髄はBLのキモたる「腐」の精神、妄想力にあったと気づいたからです。
男同士、上司と部下、友達同士で恋愛仕立ての歌を贈答していた『万葉集』の歌人たち。
お題を設定して、見てもいない情景を歌に詠んだり、恋愛関係にない七十婆と三十男が恋歌を詠んだりしていた平安貴族たち。
「男もするという日記というものを、女の私も書くよ」と言って、『土佐日記』を書いたネカマの元祖のような紀貫之。
男が女や鬼や老人を演じる室町時代の猿楽能。
女が男を、男が女を演じる戦国~江戸時代の歌舞伎。
子作り以外の性を罪悪視して男女の役割を固定化する傾向にあった前近代のキリスト教圏と異なり、日本では、両性具有してこそ最強という思想もあり、男女の境があいまいで、日本神話には子を生む男神がいたり、男装して敵を迎え撃つ女神アマテラス、女装して敵を倒すヤマトタケルなどもいる。
平安後期には、男として育ち女と結婚をする姫君と、女として育つ若君を描いた物語もあるのです。
このように古典文学で、しばしば性の境が自在に飛び越えられるのは、人の代わりに歌を詠む「代詠」の伝統というのがあって、老若男女すべての立場になって思考する「妄想力」を磨く訓練ができていたからでしょう。
日本でBLというジャンルが生まれ、他国に例を見ない発展をしたのは、こうした「妄想力」が土壌にあったからではないかと思うのです。
BL漫画を見ていると、男っぽいイケメンと、女っぽいイケメンの組み合わせも多いものですが、これなども前近代の男色世界における年長の念者と年少の若衆という組み合わせに重なっている。遡れば弁慶と牛若丸、さらに遡ると、女装しても「映える」ヤマトタケルと猛々しい敵クマソタケル、さらには大きなオホナムチと小さなスクナビコナという日本神話の神様に辿り着きます。
追々見ていくように、BL目線で見れば、かの『源氏物語』だってBL小説ではないか……と思えるふしもあるのです。
男色は女色と対になる、男目線の概念であるのに対し、『源氏物語』などの平安古典文学には、明らかに男色とは異なる、女目線のBLとしか言いようのないシーンがあるんです。これに気づいてしまったことが、今回、BLの本を書く直接の引き金になったのでした。
日本の文芸が、いかにBLの「腐」の精神、妄想力に満ちたものであったか。
本書がそうした世界への小さな道案内となれば幸いです。
大塚ひかり