見たり聞いたりした瞬間感想が思い浮かばないときにうーんと十秒くらい思い浮かぶのを待たない人は自分の心を生きているといえない
(こちらの記事の続きとなります)
かわいいものを見たときに、それがどんなふうにかわいいのかを感じる前に「かわいい」と言うひとは、とてつもなくたくさんいる。
見てすぐに犬にかわいいと言い、赤ん坊や子供にかわいいと言い、服にかわいいと言い、おもちゃにかわいいと言い、女のひとにかわいいと言っているけれど、それはさっさとかわいいものを見ているいい気分になるためにそうしていることだったりするのだ。
見えているものがどんなふうなのか、自分がそれに何かを思うまで見てみようとしたり、聞こえているものがどんなふうなのか、自分がそれに何かを思うまで聞いていようとしたりすることが年に一回もない人というのは、子供や若者では少なくても、年を取った人間には全く珍しくなかったりする。
肉体が感じているものをほとんどまともに感じていないひとたちには、そういうひとたちの人生とか、世界の体験の仕方があって、そういうひとたちが「かわいい」とか「かっこいい」とか「おいしい」とか言っているからといって、実際はほとんど何も感じていなかったりするのだ。
何を感じようとしなくても、そういうときに言うとよさそうなことは頭に浮かぶのだから、できるだけ疲れないように生きているのなら、何も感じていないままそれを言うようになってしまうのだろうし、そういうひとたちがとてもたくさんいるのは自然なことですらあるのだろう。
けれど、自分のそばにいるひとがそんなひとだったら、そんなひとの話を毎日聞かされるのは退屈だなと思う。
俺に子供がいたのなら、その子供には、何にでもうーんと十秒くらい考えれば、その時点での自分なりの感想とか意見とかが言えなくもないひとになってほしいなと思う。
もちろん、知らないことは知らないし、わからないことはわからないとして、わからないなりのことを話すということなのだ。
いつだって、自分がどう感じているのかということについては話せるはずだろう。
わからなくても、自分の経験の中から照らし合わせられなくもないものを選んで、それくらいしかイメージできていないなりに思うことを話せるはずなのだ。
けれど、多くのひとは、職場で仕事のことについてだったとしても、びっくりするほど意見を言わないし、求められたとしても何も浮かんでこないし、感想を話すにしても子供の作文みたいなものしか出てこなかったりする。
きっと、うーんと十秒くらい考えるということこそ、多くのひとができないことなのだろう。
けれど、自分が何かを思いそうな気がするたびに、立ち止まってうーんと考えておこうとしておけるのなら、そうしていた方がいいはずなのだ。
別に考えてみるだけでよくて、それについて何か話せなくてもいいのだ。
何も知らないなりに、何もとってつけずに、自分が今感じたのはどういうものだったのか話すことができるようになれればそれでいいはずだろう。
そうやって話せたなら、他人の感じ方に興味があるひとから面白がってもらえるはずだし、面白がってくれるひとと話しているうちに、自分がひとに一生懸命話そうとしたことから、自分はそうなんだなといろんなことに気が付いていける。
そういう時間が生活の中にあるひととないひとでは、感情生活はまるっきり違ってしまう。
ほとんど何もまともに感じていない状態でああだこうだ言っている大人がたくさんいるけれど、そういうひとたちのことは、本当にそう思っているわけではないもので生きるひとだと思っていればいいのだろう。
そういうひとたちは、何もかもちゃんと感じなくても見ればわかると思っている。
けれど、見ればわかるものも、わかっているからって、じっくりそのまま感じていればもっと何かを感じられると思っているべきだし、いつでも自分は感じ足りていないのだということを忘れないでいられるひとでいるべきなのだ。
ゆっくりと感じて、心にずっしりとそれの質感をいっぱいにしていると、何かしらは思うし、それはけっこう自分で本当にそうだなと思えることだったりする。
ひとと向き合っているときもそうで、相手のことをゆっくりと感じ続けていれば、相手が何を苦痛に思っているとか、どんな気分でいるということの背景とか文脈を感じ取りやすくなるし、自分がそのひとに思いたいことを思っているだけではなく、そのひとにとってはどういうことなのかも自然と感じ取れるようになる。
何を言ってあげられるわけでなくても、それだけで充分だったりするのだ。
ちゃんと聞いていて、ちゃんと感じているだけでも、お互いにとって話している実感はずいぶん変わってくる。
ちゃんと通じているのをお互いが感じていれば、それだけでいい気分が発生する。
そういうような、ちゃんと話を聞いてもらっていることに相手が満足しているのが伝わってくる感覚というのは、感じたことがないひとは、一生に一度も感じることがないものなのだろう。
話しているひとがひとの気持ちを感じ取れるひとで、一生懸命伝わってほしいと思って喋っているときであれば、ちゃんと聞いてくれていて、自分の気分を感じ取ってくれていて、リアルタイムに自分の言葉に気持ちを動かされながら何か思ってくれているかどうかというのはわかる。
相手の気持ちのスピードで話を聞く態勢になったことがないひとというのは、普通に聞いているようで、言われている内容を受け取りたいように受け取ってくるし、相手の気分に同調しようとしてもうまく噛み合わないから、ちゃんと気持ちで聞いてくれているひとに話しているときとは、全く話していて感覚が違うものなのだ。
旦那が自分の話を本当にちゃんと聞いてくれたことなんて、出会ってから一度もないと思っている女のひとはとてもたくさんいるのだと思う。
昔は優しくしようとして、とにかく聞いてくれて慰めようとしてくれたりしていたけれど、当時ですら、全然何が言いたいかわかってくれてなかったし、どういう気持ちなのか真面目に受け止めようともしていなかったと思われていて、そして、そういう時期が過ぎたあとは、言葉に言葉が返ってくるというくらいにしか会話が成り立っていなかったし、話すほどに虚しかったなと思われていたりする旦那がとてつもなくたくさんいるのだろう。
世の中には、一生のうちに誰からも一回も、ちゃんと話を聞いてくれてありがとうと思ってもらえないひとというのがとてつもなくたくさんいるのだろう。
男は特にそうなのだろう。
自分ではひとの悩みとか愚痴くらい聞いてあげたことくらいあるつもりだけれど、実際にはそのひとに一生懸命長々と何かを話したことがあるひとはいないし、ちゃんと聞いてくれるなとうれしい気持ちになったひともいなかったというひとが、下手すると男の過半数だったりするんじゃないかと思う。
男の大半がそうだし、そうでなくても多くのひとが、他人の気持ちをほとんど感じていない状態で生活している。
そして、そういうひとたちからすると、ひとの気持ちを理解しようとしながら話を聞くなんて面倒くさすぎるし、無理をしてもいらいらするばかりだし、そんなことできるわけがないだろうというのが本音だったりもするのだろう。
気持ちでそのひとの話を聞いていないのなら、そう思うのも仕方のないことなのだろう。
相手が自分の気持ちを確かめながら話してくれているときには、相手の心が動くスピードに合わせてそのひとが話すのを聞いていないと、相手の話は遅くて散漫でたるく感じられてしまう。
頭で相手の話している内容の要点だけ聞いているのなら、相手はいつも喋り終わるのが遅いひとになる。
身体が気持ちに気持ちで反応する状態になっていないのなら、頭は自分が快適なように好き勝手なことを思い続ける。
頭はいつも、すぐにわかった気になろうとするし、前にも聞いたような話だったり、なんとなくでも知っているものには、すぐにこれはあれと同じだと思ってしまう。
そして、同じだなと思うと即座に頭も心もだらけてしまう。
少しでも楽をしたくて、自分がそれに対して自分なりに何かを思う前に、こういうものにはこんなふうに思っていればいいというパターンを思い浮かべて、それを自分の思ったことにしてしまうということなのだろう。
それは自分で何か思うよりもはるかに楽だから、自分の日々の生活や人間関係に慣れてきて、いつも通りではないようなこともめったに起こらない生活を送っていると、ひとはどんどん自分では何も思わないようになっていく。
できるだけ楽をしようとするのは人間の習性のようなものなのだろうし、自然とそうなってしまうものなのだろう。
だからこそ、自分が楽をしたいという以上に、相手に喜んでもらいたいという気持ちの方が強い状態を維持することで、相手を前にしたときに、楽をしようとする気持ちを自分で落ち着かせていられるようになることが大事なのだ。
知っているつもりのものを、知っているとはいえ、まともに感じようとしてみるというのが、ひとと接したり、ひとが伝えようとしているものを受け取るときに、自分が誠意を示せるところだと思っていた方がいい。
ちゃんと受け取って、ちゃんと反応するということ以上に、相手に喜んでもらえることはないのだ。
何かを思いながら、自分の考えていることで半分埋まっている頭と心で受け取ろうとしても、自分が思っているほどは、相手がどんなふうに語りかけてくれているのかということを受け取れていないのだ。
相手からしてもちゃんと受け取ってくれている感覚がするくらいに受け取るには、自分のことを考えたがる頭を黙らせて、しっかり相手に身体ごと心を向けて、相手の身体から伝わってくるものをできるだけそのまま受け取って、受け取った相手の気持ちの動きをいったん自分の中にまるごと入れてしまう必要がある。
自分がどう思うとか、自分はどういうつもりだとかいうことはおいておいて、自分を空にして、ただ相手は今そうなのだということだけを確かめるようにして相手に身体を向ける必要があるのだ。
そのためにも、知っていることを思い出して受け取ったふりをする自動的な意識の働きを止めて、知っていることを語りかけてくる相手の何かを思うスピードの遅さを当然のものだと受け入れて、頭で何か思おうとするのをやめて、頭を空っぽにして寄り添っていられるようにならないといけないのだ。
(終わり)
「息子君へ」からの抜粋に加筆したものとなります。
息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。
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