そういう年齢だから結婚するという理由で結婚しないと結婚できないタイプだと自分でわかっていなかった
(こちらの記事の続きとなります)
付き合ったひとたちのことはみんな好きだったし、自分とはそれなりに違ったところがあるからこそ、たくさんのことを教えてもらえたのだと思うし、付き合っている時間の中で自分はそれまでよりマシな人間になっていけた。
それだけで、そういう日々をできる限り最後まで続けてみようと思うには充分だったはずなのに、どうしてそういう人たちの誰一人にも、ずっと一緒にいたいと思えなかったのだろう。
本当に、一体何がどうしてそうなってしまったんだろうなと思う。
けれど、これは結婚しないままいい歳になってしまった、さほど汚くもなく、女のひとと長々とした会話をするのが億劫なわけでもないような、けれどかわいげに欠けた、ひとに寄りかかれないおじさんとして、それなりによくあるパターンなのかもしれない。
自分を侮らせることができる男は、ダメな自分をかわいく思ってくれるとひとと一緒にいられたなら、そんなふうにダメなひとだと扱われるのに甘んじている時間の中で、自分を相手に委ねられている幸せを感じるようになるのだろうし、そうしたときには、そんな相手のところに毎日帰ってくる暮らしというのが、自分にとって幸せなものに思えて、その幸せを守っていきたい気持ちになっていきやすかったりするのだろう。
俺は相手と楽しくやっていたけれど、依存しようともしていなかったし、依存してもらいたいとも思っていなかった。
自分が相手を愛しているとは思っていたけれど、誰に対しても向けられる愛情を今はそのひとに一番多く向けているというような感覚もどこかにあったりはしたのだろう。
そのひとだけが自分を甘やかしてくれて、そのひとにだけ身を委ねられていると思えたら、相手に感じる愛情も全く違ったものになっていたのだと思う。
そうすると、自然と誰かとそんな関係になっていきにくい俺のようなタイプほど、結婚する年頃になっているんだから結婚するしかないということがよくわかっている必要があったということなのだろう。
依存しにくいひとは、なんとなく自分がそれほど愛していない気がしてしまうし、愛してもらえていない気もしてしまうものなのだろう。
自分みたいなタイプの男はそういうものなのだとよくわかっていないと、そこまでの感情がない気がするからと保留し続けて、いい歳になるまで結婚しないままになってしまうというのが、よくあるパターンなのかもしれない。
相手に依存する気がないひとの場合は、自分ではほどほど程度にしか思えない執着しか相手に感じなくても、相手を大切に思えているのなら、それが自分の愛情の上限だと思って、充分に愛せていると見なさないといけないと、誰か教えておいてくれればよかったのにと思う。
けれど、そういうことなんだなと思ったからって、今さらそういうものなのだと割り切って、新しく結婚して子供を育てられるための活動を始めようという気にもなれないのは、ここまで書いた通りなのだ。
自分がもう四十歳近くなったことで、そもそもしっくりくることができるひとと出会うこと自体が現実的になくなっている。
そうすると、これから子供を育てる生活がしたいのなら、自分とはあまり合わないひととそういうことのために一緒になるしかないということなんだろう。
そして、できちゃった婚ならまだしも、何で知り合うにしろ、まともに恋愛して仲良くなったひとと結婚するなんて自分にはありえないんだなと思ったのは、昔の会社の同僚の人と久しぶりに会って、その後不倫を持ちかけれてそういう関係になったけれど、そのひとがあまりにも気持ちが通じないひとだったし、自分のことをちっとも面白がってくれなかったことで、もうこれは無理だなと思い知ったからでもあるのだ。
自分のことを面白がってくれないひととまとまった時間を過ごすのは、もしかすると大人になってからの人生で、そのひととが初めてだったのかもしれない。
セックスとその前後の時間をいい気分で過ごして満足してはいたけれど、街に出かけてみたり、旅行に行ったりと、ゆっくりと一緒に過ごすほどに、一緒にいたからといってお互いを人格としてもっと好きになっていけないことはこんなにも虚しいことなんだなと、びっくりするような体験になってしまった。
もちろん、そのひととのことが決定的だっただけで、その前からそう思っていたことではあったのだ。
前の彼女と別れてからの数年で、飲みに行ったり、いちゃいちゃしていたり、セックスして一緒に眠ったりしたひとたちとの時間を思い返したときに、付き合えたらよかったのにと思ったひとを除くと、どのひとにしても、俺の人格とかものの感じ方に興味がないということだと、そのひとと大差ないくらいだったんだろうと思う。
そのひととのように、話がうまく噛み合わなくて気まずくなったりすることはなかったけれど、どのひととも、思ったことをそのまま言えているような気分になることがないまま時間が過ぎていたように思う。
ずっと相手に合わせて、相手が話してくれることを楽しんで、それを膨らませるようにして話すばかりで、自分のことを知ってもらいたいとか、自分のことを面白いと思ってもらいたいという気持ちはあまり動いていなかった。
自分の気持ちのままの顔で一緒に過ごしていられるようなひとには、この数年でひとりとしか仲良くなれなかったのだ。
しかもそれはマッチングサービスアプリで知り合った歳下すぎたひとだったし、それも何年も前のことだし、その頃ですら俺は選んでもらえなかった。
そして、他のひとたちはみんな俺を面白がってはくれなかったのだ。
そのひとと不倫していた頃でも、会って一回飲んだりしたひとは何人かいた。
それなりに楽しげにお喋りできた相手でも、また飲みましょうと言ってお別れしていても、その後連絡を入れてみても、うやむやにされて、そういう感じでもなかったんだなという結果になるばかりだった。
もちろん、俺の方だって、このひととはすごく仲良くなれそうだと思えたひとというのはいなかった。
けれど、そのひとたちにしても、会社にいる女のひとたちよりは、まだノリの合いそうなひとだったりはしたのだ。
そういうひとたちと飲んだりはできていて、それでも全然話していて仲良くなれる感触すらなかったということなのだ。
そんな中で四十歳が近付いてきているのだ。
もう今からは、セックスとか不倫目当て以外では、俺とならいい関係になれるかもしれないと軽くでも思ってくれるひとと知り合うことすらなくなっていくんだろうなと思っているし、知り合ったひとと自然と話が噛み合うこと自体がなくなっていくんだろうなと思っている。
単純に、もう六年近く彼女はいなくて、状況は六年前より圧倒的に悪いのだ。
このままずっと、付き合おうということになるような女のひととは知り合えないままでも何の不思議もないというのが、素直な気持ちなのだ。
きっと、世の中には、学生時代とか、二十代くらいまでは、付き合っているひとといろんなことをたくさん語り合っていたのに、三十代になって付き合ったひととはどうしても表面的な話しかできないままで、とはいえ相手はそれを望んでいるから結婚して、けれど、結婚してからも、どうしたって何かを一生懸命話すムードになることはなくて、よかったねとか、お疲れ様とか、そんなことしか言えない日々を自分が送っていることに絶望的な気持ちになったりしているひとがたくさんいるんだろうなと思う。
仕事の付き合いとか、子供とか趣味を間に挟んだ人間関係はまた別だろうけれど、恋愛とか友達とかということになると、歳を取ってからできた関係というのは、若い頃にできた関係とはあまりにも違ったものにしかなりえないのだ。
若い頃からいろんな経験をしたり、いろんなことについてシリアスに考えたりしてきたようなひとほど、そう感じているものなんじゃないかと思う。
自分らしさも、二十歳すぎの自分らしさと四十歳の自分らしさでは、自分らしさの内容量に大きな差があるのだ。
歳を取るほど、自分の自分らしさはひとに楽しんでもらえないものになっていきがちなのだろう。
子供だったら、どんな子供にしても、ほとんどみんな同じような経験しかしていないし、同じようなものにしか触れてきていないから、みんな似たようなことしか思ってきていなくて、だから子供同士はお互いにさほど大差のない存在だと思って関わっていられる。
二十歳くらいでもそうなのだろう。
若者は若者としてみんな似たようなものだし、ある程度似た雰囲気の相手なら、自分と似たような相手だろうと思いながら接していても困ることはない。
似たようなものだから、相手の言っていることは何でも自分もある程度そうだなと思えるし、何でもなんとなく理解できるし、同意できたりする。
大人からすれば似たようなものでも、若者本人としては、自分は相手と全く違うと思っていて、実際、知らないことだらけだから相手の感じ方が自分と違うことにいちいち驚いて面白がっていられる。
そして、若者同士なら、一生懸命話せばお互いのことを伝え合えてしまったりもするのだ。
だから若い頃は深い話をたくさんしている気になりながら、相手と関係を深めていけるのだろう。
歳を取っていくほどに、気持ちの通った会話をできる相手と新しく仲良くなれる可能性は低くなっていくものなのだろう。
若い頃は何も知らない同士で、何も知らないなりの話を一緒にしていられたけれど、歳を取るほどに、生きてきて考えてきたことや気にしてきたことの違いがどんどん大きくなって、どんどん話が合わなくなってしまう。
若者たちはそう思っているわけではないけれど、若者は若者同士というだけで、なんとなく仲間意識を持てていたりするのだ。
歳を取ってくると、同年代の相手でも、生きている場所や立場の違いが、そのまま価値観の違いになってきて、何を話すにも、ギャップを感じるたびに、そのギャップがちょっと話したくらいでは全く相手に届かないような大きな断絶に思えるようになって、まともに話す気もなくなってしまうようになるのだ。
(続き)